楽園…9

「久し振りですね、土屋さん。もう来てくれないのかと思った。…淋しくて、仕方が無かったです、」
 何を云えば、この男が喜ぶのかを知っている梓は、相手の肩に触れながら囁く。
 すると土屋は口元を微かに緩ませ、己の前髪を緩やかに掻き上げた。
 男の色気を漂わせている土屋に、気を抜けば見惚れてしまいそうだと考えて、梓は胸中で自嘲する。
 土屋に対する複雑な想いは、蓋をして、隠さなければいけない。
 この男だけはやめておけと、ハルユキにも忠告された事があるからだ。


 一言で云えば、土屋は危険な男だ。
 比較的、温厚に振舞っているのは本来の粗野な性格を隠す為で、一度怒らせれば手が付けられない。
 以前、客とトラブルになった事が土屋の勘に障り、梓は肋骨をへし折られたことも有る。
 その所為で梓は土屋に恐れを抱いてはいるが、同時に、ハルユキとは別の意味で惹かれてもいた。
 土屋が自分に、ひどく執着していることに気付いてしまってから、意識せずにはいられなくなった。

「アズサ…いや、この店ではキョウヤと呼ぶべきか、」
「土屋さんのお好きなように。でも、あなたには本名で呼んで貰えた方が、嬉しいです。」
「相変わらず、口が上手いな……お前、またネクタイをしていないのか。しろよ、」
「土屋さん、おれに会う時はそればかり言っている。そんなに、だらしがないですか、」
 可笑しげに笑い声を立てる梓の腰を、土屋は不意に抱き寄せた。
 顔がぐっと近付くが、梓は尚、平静を保つ。

「緩める愉しみが、お前には分からないのか、」
「ああ、分かります。そそりますよね、」
 引かれるまま、土屋の膝上へ腰を下ろした梓は、相手のネクタイに目を留める。
 断りもせずにそれを手にするが、脳裏に小鳥遊の顔が浮かんで、思わず笑いを零す。
「…どうした、何か可笑しいことでも有ったのか、」
「別に、大したことじゃ無いんです。」
「云えよ。気になるだろう、」
 土屋の指が、梓の頬を緩慢な動きで撫でる。
 口調は穏やかだが、このまま教えなければ間違いなく土屋は、怒り出す筈だ。
 それを察し、梓は一瞬躊躇うも、直ぐに口を開く。

「知人なんですが…ネクタイを上手く結べない人で、会う時はいつも、おれが結んでやるんです。 その所為で、他人のネクタイの結び目まで気になるようになってしまって。…大したことじゃないでしょう、」
 猜疑心が強く勘も鋭い土屋には、嘘ですら安易に見抜かれてしまう為、梓は正直に話す。
 云えと命令しておきながら土屋は、さして興味無さそうに聞いている。
 他の人間の話題を振っても、この男が乗って来る筈も無く、梓はそれとなく話を逸らした。
「土屋さんの結び目は相変わらず完璧ですね、」
「当然だろう。俺は完璧なものしか好まない。…だから俺は、お前のことが好きなんだ。アズサ、お前の容姿は完璧だ。早く俺の物にしたくて堪らない、」
 後ろに回された土屋の手が、何度も背を撫でてゆく。
 指を這わせ、背骨をなぞりながら下降する動きに、梓はほんの少し息苦しさを感じる。
「梓……いい加減、何もかも捨てて俺の物になれ。その方が、楽だろう。余計な事は、何一つ考えないで済む。」

 もう何度も耳にした、支配の言葉。
 土屋は、いつだって人では無く、ただの物としか梓を見ていない。
 十分過ぎるほど、それを理解している梓は、やはり土屋だけは選んではいけないのだと再実感する。


 ――――こんなおれにも、捨てられないものは、ある。
 土屋からして見れば、ひどくちっぽけで、くだらないものだろうけれど。
 おれにとっては、何よりも輝いて、色あせることの無い………ハルユキと過ごした日々の、記憶。



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