楽園…12
「そうだ、梓くん。珈琲は飲めるかな? これ、電車に乗る前に急いで買ったんだが、」
鞄の中から取り出した缶珈琲を差し出すと梓は礼を言い、面杖をついた逆の手で受け取る。
指をつまみに掛けて器用に片手で開ける姿を目にし、小鳥遊はさきほど抱いた違和感が、気の所為では無いことに気付く。
今まで出会った記憶を探る限り、彼は顔をきちんと此方に向けて会話してくれた。
それに、梓が面杖をついている姿も、珍しい。
何か有ったのかと訝り、無言で視線を注ぐと、梓はそれに気付いたかのように此方へ目を向けた。
「…ネクタイ、今日は綺麗ですね。練習したんですか、」
「あ……ああ。その、まぐれかも知れないけれど…」
「まぐれだろうと、すごいですよ。小鳥遊さん、かなりの不器用なのに…頑張りましたね、」
にこやかに微笑む梓に褒められ、胸の奥が熱くなる。
会う度に直していた梓が気付くのは当然かも知れないが、小鳥遊は嬉しくて堪らなかった。
「私の方がずっと大人なのに…褒められるのが嬉しいなんて、情けないな、」
「大人だって、誰かに褒められたいものでしょう、…そう云うのは、大人も子供も関係無いと思いますよ。」
「梓くんは、何だかしっかりしているな。」
思わず感心の声を上げると梓は目を細めて笑い、手にした珈琲を一口だけ飲んだ。
ずきり、と口内の傷口が痛んだが、何とか堪えて顔には出さず、吐息を零す。
「温かいですね、これ。」
「春が近いと云うのに、まだ寒いだろう? だから、温かい方が良いと思ったんだが…冷たい方が良かったかな、」
「いいえ。おれ、温かい方が好きなんです。冷たいものって、体温が奪われてゆく感覚がするから嫌いなんだ、」
「じゃあ冬も嫌いなのかな、」
「大嫌いです。……体温が下がると、厭なことばかり思い出す。」
梓は思わず目を伏せ、憂愁の色を濃くした。
母親に虐げられていた当時の記憶は、どれだけ時が過ぎても鮮明に蘇る。
ある冬の日、まだ小学生だった頃、風邪をこじらせていたのにも関わらず
雪が積もった外に閉めだされ、肺炎で死に掛けたことがあった。
それ以来、寒さを人一倍嫌うようになり、心の何処かで温もりを欲している。
母親の泣き顔を思い出すと、梓は缶を強く握り締めて衝動的に、珈琲を一気に呷った。
「――ッ、」
傷口に再度痛みが走って、顔を歪める。
梓の様子を見守っていた小鳥遊は、表情の変化を見逃さなかった。
「梓くん、どうしたんだ? 何処か苦しいのか、」
「大丈夫です。口の中を切ってしまって…傷がまだ塞がっていないので、少し痛むだけです。」
「どうして切ったんだ、……殴られたりしたのか、」
大抵の物事に対し、鈍感な筈の小鳥遊が放った問いに、内心驚く。
珍しく梓は動揺したが、それも一瞬だけで素早く平静を装った。
「…不注意です。少し、ぼーっとしていて、咬んでしまっただけです。気にしないでください、」
素っ気無い物言いで返され、小鳥遊は眉を寄せた。
梓が、そんな失態をするとは到底思えない。
もし仮に、それが事実だとしても………失態を語るのなら、微苦笑しながら云うのでは無いか、と。
知り合ってまだ一ヶ月も経ってはいないが、梓なら、そうするだろうと強い確信があった。
「梓くん…ちょっと、いいかな、」
不意に、小鳥遊が右手首を掴んだ。
面杖をつく事で頬を隠していたのだが、それが返って怪しまれたのかと、梓は己の失態を悔やむ。
「離してください、小鳥遊さん。…痛い、」
掴まれた箇所に目を向け、若干迷惑げに告げる。
小鳥遊の性格上、こう云えば慌てて離すだろうと思ったが、予想に反して離そうとしない。
小鳥遊は一度だけ謝った後、躊躇う素振りも無く強引に、梓の手を引いた。
隠していた部分が露わになり、くっきりと痣の浮かんだ箇所へ視線が注がれる。
隠す事を諦めたが、梓は目を逸らさずに真っ向から見据えた。
そうしながらも内心では、気後れしてばかりの小鳥遊がとった強気な行動に、いささか驚いていた。
小鳥遊の意外な行動は、梓に関心を抱かせるには十分だ。
興味深げな視線を投げる梓とは違い、小鳥遊は厳しい表情をしている。
痣を無言で眺めている小鳥遊の瞳に憐憫の情が浮かんだ。
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