楽園…13
「これは…殴られた、のか? 誰に、」
「大袈裟ですよ、小鳥遊さん。おれは女じゃないんだ、こんな事には…慣れている。」
「でも、痛いだろう。…梓くんはさっき、大人も子供も関係無いと言った。こう云うのだって、男も女も関係無いだろう。痛いものは、誰だって痛い筈だ。」
珍しく、力強い口調で言い切る小鳥遊から目を逸らし、梓は少しだけ俯く。
小鳥遊が自分のことを心配してくれているのは、十分解る。
そしてそれを、嬉しいと思うよりも、申し訳なく思う自分がいる。
(やっぱり、痣が消えるまで会わないようにすれば良かった。)
何度かそう考えてもいたし、最善の方法だとも思う。
それが出来なかったのは―――――小鳥遊に、ただ会いたかったからだ。
何度か会う内に気付いたが、彼の傍は、居心地がいい。
誰と話をしても何をしていても、昔から虚を感じていた。
ハルユキが死んでから、その感覚は強まってゆくばかりだった。
けれど小鳥遊と会っている間だけは、落ち着くことが出来る。
小鳥遊の傍でなら、ハルユキとの想い出を穏やかな気分で辿ってゆくことも出来た。
だから、今の自分にとって小鳥遊は必要な存在だ。
出来れば、彼には普段通りで居て欲しいし、余計な心配を掛けさせたく無い。
その為には、心配させぬように努めなければならない。
「…正直言うと、痛いです。でも騒ぐほどのものじゃない。だから大丈夫なんだ、本当に、」
やがて沈黙を破った梓の言葉を、小鳥遊は残念に思う。
立ち入られたくない事なのか、それとも単に同情されるのが嫌いなのか、分からないが
何か有ったのなら頼って欲しいと、強く思ってしまう。
少しでも梓の助けになる事で、自分も、救われる気がするのだから。
「それより、小鳥遊さん、そろそろ行った方が良いんじゃないですか。遅刻してしまいますよ、」
小鳥遊は慌しく腕時計へ目を通し、舌打ちしたい気分になった。
梓の云う通り、もう会社へ向かわなければいけない。
しかし梓を放ってもおけないと考え、悩む。
「それと、これ…御馳走さまでした。嬉しかったです、」
缶を指し示し、梓は本心を告げて微笑した。
安値の缶珈琲だけで笑ってくれた梓を見ていると、小鳥遊は無性に、何かをしてやりたくなる。
「梓くん、今夜、時間は空いているかな。いや、空けておいてくれないか? 何か食べに行こう、奢るよ。」
口を衝いて出た言葉に自分でも驚いたが、取り消す訳にもいかない。
もう一度腕時計を確認し、続いて梓の表情を窺う。
その表情は、小鳥遊にも分かるほど、はっきりと困惑の色を浮かべていた。
「あの…おれ、仕事が有りますから、」
「頼むよ、今夜だけだ。会社が終わったら直ぐに此処に来るから。21時には居るよ、約束する。」
早口で捲くし立てて食い下がる小鳥遊に、梓は折れ、渋々ながら承知した。
小鳥遊の傍は居心地が良い。けれど、正直、会うのは短い間だけで良かった。
共に過ごす時間が、多ければ多いほど離れがたくなるのだから。
約束を取り付けた後、急ぎ足で去ってゆく小鳥遊を、梓は複雑な心境で見送った。
約束の時間に梓が現れた時には、小鳥遊は心から安堵した。
強引過ぎた、と自分でも思っていた為、ひょっとしたら梓は来ないかも知れないと踏んでいたのだ。
安堵の色を表情に浮かべている小鳥遊とは違って、梓の表情はぎこちない。
それに気付いた小鳥遊は、どうかしたのかと訝る。が、理由はすぐに予想出来た。
「梓くん…その、すまない。少し、いや…かなり強引だったろう、」
自分の強引さが原因だろうと思い、肩を落としながら謝罪する。
すると梓は、ほんの少しだけ口の端を上げて微笑した。
「ええ、強引で驚きました。小鳥遊さんって、気弱な質だとずっと思っていましたし。」
「す、すまない…、」
「別に怒ってはいませんよ。ただ、仕事をサボってしまったので見つかると厄介なんです。
この近辺の店にも入れませんから、他の場所へ行きましょう。
おれの自宅近くに、イタリア料理の美味い店が有りますから…良かったら、そこで。」
小鳥遊には断る理由など無く、あっさりとその提案を承知した。
さぼらせてしまった事を知って気が咎め、再度謝罪しようとした矢先に、電車がプラットフォームへ滑り込んで来る。
梓はそちらへ目を向けると、足早に乗り場へ向かう。
その背を小鳥遊が慌てて追い、程なくして、二人は電車へ乗り込んだ。
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