楽園…15

「そう云うことなら、お断りします。それに…おれは、ちゃんと働いている。自分の分は自分で払えるんだ、」
 声音は明らかに気を損ねているもので、小鳥遊は慌てて頭を下げた。
「すまない。君のプライドを傷付けてしまったかな、」
 馬鹿正直に謝罪され、梓の表情が困惑げなものに変わる。

 小鳥遊は、素直な人間だ。
 鈍感で、気付くのは割と遅い方だが………悪いと思ったら直ぐに自分の非を認め、心から謝ることが出来る。
 そう云う誠実な面に――――自分には無い一面に、強く、惹かれてしまう。

 小鳥遊に抱いている想いは、恋と云うほど強いものでは無い。
 だが、小鳥遊のそう云った一面を前にしていると、いつか、恋に変わってしまいそうな気もする。


(……小鳥遊さんは、普通のひとなのに。どうかしている。)
 溜め息が零れそうなのを堪えて、口を開く。

「なら、半分出し合うことにしましょう。一人分なら兎も角、二人分となると高くなりますからね。おれ、結構食いますから、」
 先刻までの不機嫌な色を掻き消し、梓は微笑した。
 それに安堵した小鳥遊が浅く頷いた後、二人はようやく、相談し合いながら料理を選び始めた。

 結局、小鳥遊が食べられるものか確認した上で、梓のすすめる料理をいくつか注文する事となった。
 メニューを下げたウェイターが颯爽と去ってゆくのを見送りながら、小鳥遊はぽつりと呟く。

「イタリア料理か…最近、食べていないな、」
「普段は何を食べているんですか、」
「コンビニで、適当に弁当を買って食べているよ。」
 思いも寄らなかった返答に、言葉を失くす。
 小鳥遊は既婚者なのだから食事は勿論、妻が作っているものだろうと思っていた。

「…だから、ちゃんとしたものを食べるのは久し振りでね。愉しみだ、」
 瞳を軽く見開いた梓に笑い返しながら、グラスへ手をつける。
 深くは語らない小鳥遊に、梓はほんの少しだけ、切なさを覚えた。
 それを掻き消すように一度歯噛みし、自分もグラスを手にして水を飲んだ後、別の質問を口にする。

「おれ、ずっと訊きたかったんですけど…どうして楽園って言ったんですか? 初めて出会った時、天国じゃなくて楽園に行けるって…、」
 問われると、小鳥遊は微かに顔を顰め、視線を彷徨わせた。
 そう云う態度を見せれば梓の事だから、きっと諦めてくれるだろうと考えていたが
 梓は目を逸らさず、此方をじっと見据えている。
 そこまで拘られては避ける事も出来ず、小鳥遊は諦めて微苦笑した。

「参ったな…大して、面白みの無い話だよ。私の、過去の話だ。」
「話してください。おれ、どうしても聞きたいです、」
「…私には、弟が一人居てね。病弱で、しょっちゅう入退院を繰り返していたんだが、 私が14歳の頃には肺を患って亡くなった。 あいつは私に向かって、楽園に行けるかと、死ぬ前にしつこく尋ねて来たんだよ。」
 思ってもみない言葉に内心焦った梓が、申し訳無さそうに目を伏せた。
「……すみません、」
「いいよ、もうずっと昔のことだ。気にしていない、」
 抑制された口調で、何事も無いように小鳥遊は語る。

 そんな風に返せるようになるまで、どれほど苦しんだのだろうと、梓は思う。
 小鳥遊は、乗り越えて来たのだろう。
 彼は、立ち直れる強さを持っているのだと思うと、胸の奥がひどく熱くなった。
 それに内心戸惑いつつ、梓は緊張した面持ちで口を開く。

「あの、どうして弟さんは、楽園に行けるかを尋ねたりしたんですか、」
 小鳥遊は不意に表情を緩め、追懐の情に浸るように遠くを見て、双眸を僅かに細めた。

「弟と二人だけで観に行った映画があってね。あいつ、どうしても観たいと言って終いには泣き出すものだから、 仕方なく連れて行ったんだ。 題名は、もう忘れてしまったが…親に捨てられた幼い姉弟が、楽園を探す話でね。 色々な人達に裏切られても、諦められずに幸せを求める…悲しい話だった。」

「映画の結末は…その姉弟は、楽園を見つけ出せたんですか、」
 緊張を崩さずに梓が再び尋ねると、小鳥遊は控えめな笑い声を響かせた。
「それがね、弟と二人して眠ってしまったんだ。私は連日、試験勉強に追われて、 ろくに寝ていなかったし…映画館は遠かったから、弟も歩き疲れてね。 だから結末は分からない…目が覚めた時は、エンドロールが流れていたよ。
また観に来ようと約束をして、その直ぐ後だ。弟の容態が急変したのは、」
 一度言葉を区切り、グラスを手にして水を飲む。
 喉を鳴らしながら飲み干した後、やがて深い息を吐いた。



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