楽園…16
「あいつは、もう、死んだ後の事を考えていたんだ。死んだら、何処にゆくのかを。
…映画の姉弟は、死んで楽園に辿り着いたんじゃないかって、言い出したりもしてね。
自分も、死んだら楽園に行けるかと、しつこく訊いて来た。
私は、言ったよ。死んだら楽園にゆくんだ、幸せしか無いんだ、と。だから今でも…いい人間は楽園に行くんだと、つい言ってしまう。」
小鳥遊が語り終えると、ほどなくして、ウェイターが料理を運んで来た。
色鮮やかな野菜料理のカポナータや鴨肉のテリーナ、茄子と海老のシラクサーナなどが並び、小鳥遊の目を釘付けにする。
思わず歓喜の声を上げそうになったが、それを何とか堪えた。
ワイングラスを二つ添え、一礼したウェイターが去った後、梓に促されて食事を始める。
が、数分もしない内に、視線は無意識に梓の方へ向かってしまう。
ナイフとフォークを巧みに使って切り分け、行儀良く口に運ぶ姿には、全く無駄が無い。
梓は食事をとる姿ですら、様になっていた。
つい見入ってしまうが、再び料理を運んで来たウェイターの声で我に返り、素早く視線を落とす。
食卓の上には、食べた事も、見た事も無い料理が次々と並んでゆく。
「……意外と、さっぱりしているんだな。すごく美味いよ、」
仔羊のアロストを口にした小鳥遊が、舌鼓を打つ。
グラスにワインを注いでいた梓は、小鳥遊の言葉に安堵の笑みを見せた。
その笑い顔に目を奪われたが、すぐに軽く咳払いをし、小鳥遊はフォークから手を離す。
「今度は、私が質問してもいいかな? どうしてそんなに拘っているんだ……楽園を求めていたって云う、亡くなった人と何か関係が有るのかな、」
小鳥遊の唐突な問い掛けに、梓は息を呑んだ。
たった一度しか云わなかったことを………しかも、今となっては大分前の話を、覚えていてくれた。
そんな些細な事が、ひどく嬉しくて堪らない。
(……このひとなら、馬鹿にせずに聞いてくれるかも知れない。)
淡い期待感がよぎるが、半分はまだ、迷ってしまう。
ハルユキとの約束を、まるで夢物語のように、親しくなった相手へ告げていた時期もあった。
けれど失笑を買い、哀れみを抱かれ、まともに取り合ってくれる者は誰一人いなかったのだ。
好きになった相手にすら、子供じみていると馬鹿にされた事もあった。
…………もう、傷付きたくない。あんな、遣る瀬無い想いは、二度としたくない。
そんな強い想いを抱き、やはり本心を打ち明けるのはやめようと
今まで何度もして来たように、嘘で本心を覆い隠して逃げようと考えた瞬間―――――。
ハルユキの笑い顔が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。
彼が、まるで口癖のように呟いていた科白を胸中で反芻しながら、グラスを取り、ワインを一気に飲み干す。
それまで行儀の良かった梓の、突拍子も無い行動に、小鳥遊は些か呆気に取られた。
「あ、梓…くん? だ、大丈夫かい、」
小鳥遊の遠慮がちな声が掛かると、口元を手の甲で拭い、食卓の上へグラスを静かに置く。
「…おれ……おれも、楽園を求めているんです。そいつ…ハルユキと約束したんだ。お互い、楽園を必ず見つけ出そうって、」
云い終えてから小鳥遊の顔を窺い見たが、予期していたどの表情も、していなかった。
軽く瞠目して驚いてはいるが、呆れた様子は無い。
「馬鹿みたいだって思いますか、…おれみたいな大人が、楽園を探しているなんて。」
「いいや、そんな風には思わないよ。」
「……今まで楽園のことを話しても、みんな、馬鹿にしたり、哀れんで来たりしたんだ。」
「誰が馬鹿にしても、私はしない。」
きっぱりと返され、梓の瞳が見開かれる。
悲しくも辛くも無いのに、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
次第に少し息苦しくなって、梓は俯いてしまう。
「それに、楽園を求めている君を馬鹿にしたら、弟まで馬鹿にすることになる。…梓くんが求めている楽園は、どんなものなんだ、」
空のグラスへワインを注ぎながら、小鳥遊は穏やかな声を響かせた。
無意識に顔を上げた梓の瞳が、瞬く。
ハルユキとの約束を誰かに話した後に、そんな質問をされたことなど一度も無かった。
胸の奥が更に苦しくなって、もう、何も考えられない。
今まで抑えていたものが一気に溢れ出てゆくように、梓は後先も考えず、告げる。
「おれの求めている楽園は…もう誰にも傷付けられることの無い、幸せで優しい場所、」
痛々しく思えるほどの愁いを帯びた表情に、小鳥遊の眉根が自然と寄ってゆく。
梓の顔に残った痣を見ている内、彼を傷付けた相手に対し、憤りすら覚えた。
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