楽園…17
「ひょっとして…いつも傷付けられているのか?」
案じ顔の小鳥遊を前にして、梓は苦笑し、痣にそっと触れた。
朝と比べれば痛みも大分、引いている。
「いつも、って訳じゃない。それに…身体が傷付く事には耐えられるんです。慣れているし、痛みは、いつか和らぎますから……でも心は駄目だ。これ以上、傷付きたく無い。」
「…誰かに、心を深く傷付けられたのか、」
「おれの心が、単に弱いだけなんです。誰かに拒まれるのが、恐ろしくて仕方が無い。好きな相手なら、尚更だ。……おれ、自分から好きになった相手とは、絶対、上手くいかないんです。いつも拒まれる、」
―――――相手は、大抵、ノンケだから。
続く言葉は胸の内だけに留めて、目を伏せる。
「梓くんを振る女性がいるなんて、なんだか、信じられないな、」
腑に落ちない様子で呟き、小鳥遊は考え込むように自分の顎をさすった。
女性、と云う言葉に胸中で苦笑した梓が、ゆっくりとかぶりを振る。
「前に云った通りです。すべての人達に好かれるものなんて、存在しない。……だから、おれ、自分を愛してくれる人だけを好きになる事にしたんです。そのほうが傷付かないし、辛くない。」
梓自身、本当は、そんな自分に嫌気がさしていた。
だけど一人で生きられるほど、強くは無い。
弱い心は、いつだって、寄り掛かる相手を、縋れるものを求めてしまう。
一番愛して欲しかった親に拒まれた分、余計に、誰かに愛されたくて仕方が無かった。
「……小鳥遊さん、愛されることに恐怖を覚えた事は、ありませんか、」
ワインを飲みながら黙って聞いていた小鳥遊へ、不意に、問いを放つ。
少し遅れて、かぶりを振ると、梓は笑いながら「おれも無いです」と返した。
「ハルユキは、理由は教えてくれなかったけれど…愛されるのが、ひどく恐いと言っていたんです。愛を信じられない…って。
だからあいつ、自分を好きにならないような人―――恋人が居る相手や既婚者にしか、恋をしなかったんです。そんなの、辛いだけなのに。おれと、あいつ…正反対な事が多かった、」
一気に話した後、梓は深く息を吐いた。
表情には、申し訳無さそうな色が浮かんでいる。
「すみません、こんな話…でも、おれ、ハルユキのことを聞いて貰いたくて、仕方が無いんです。」
「構わないよ。私も、聞きたい。梓くんと約束を交わした、その人のことを。」
優しい声音が耳に響いて、胸の奥が、熱くなる。
小鳥遊の言葉が、同情なのか、それとも本心なのかすら、もう梓には判別が出来なかった。
心の奥底から何かが込み上げて、息が詰まりそうになる。
けれど、ハルユキの死に泣けなかったように、今も、涙が零れることは無かった。
「…ッ、…おれ、ハルユキのことが本当に大好きだったんだ…それなのに、あいつが死んでも泣けないんです。
だから、せめて約束だけは、直ぐにでも果たそうと思って……でも本当は、見つけ方なんて知らない。何処にあるかも分からないんだ、」
今まで聞いたことも、想像したことすら無い、梓の弱音。
こんなにも脆い一面が、彼に有るとは、思いも寄らなかった。
小鳥遊は驚きで何も云えず、ただ、梓を見つめる。
その視線に気付いた梓は、妙なことを言われた所為で、戸惑っているのだと考えてしまう。
「……すみません、変なことを言って。おかしいな、もう酔っているのかな、おれ…、」
失態を恥じ入るように苦笑して見せる梓から、目が離せない。
少し遅れて慌てて首を横に振ってみたが、後の祭りで、梓は話題を変えてしまった。
「そういえば、小鳥遊さん…娘さんがいるって言ってましたよね。」
話を不自然なほど変えられ、小鳥遊は上手く立ち回れなかった自分を、胸中で責めた。
どうしてもっと上手に、器用に生きられないのかと、自分自身に腹を立てる。
だが表情には出すまいと、小鳥遊は再び料理に手をつけて憤りを抑え込んだ。
「ああ、今年で小学校にあがる娘が、一人いるよ。」
「それは可愛い年頃ですね。父親にとって、娘って可愛くてたまらないんじゃないですか、」
不意に、小鳥遊の手が、ぴたりと止まった。
視線は気まずそうに宙を彷徨い、続いて、フォークを何度も回し、パスタを絡めてゆく。
絡める量が多くなっても、まだ続けている様を見る限り、明らかに小鳥遊は動揺している。
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