楽園…18
「おれ、何か拙いこと訊きましたか、」
「いや…娘は、いい子だよ。本当に、いい子なんだ…、」
フォークを回す動きをようやく止めた小鳥遊が、神妙な面持ちで溜め息を零す。
誰にも話さず、自分の胸の内だけに留めてしまえば
現状から目を背けられるし、惨めな想いもしなくて済む。今までは、そう思っていた。
だが、梓の打ち明け話を聞き、彼が一瞬でも弱音を零してくれたことを考えれば
自分だけ誤魔化して逃げることは、ひどく不誠実に思えた。
「…娘は、私の子じゃないんだ。あの子も気付いていて、私のことを小鳥遊おじさんと呼んでいる。あの子は、妻と、浮気相手との間で出来た子供だ、」
まるで他人事のように、小鳥遊は淡々と語る。
その双眸には悲しみも憤りも無く、ただ、諦めの色だけが浮かんでいた。
それに気付いた梓の胸中で、切ない感情が、強く渦巻いてゆく。
同時に、一つの不安も抱いてしまう。
「……愛せませんか、…打ったり、殴ったりは…、」
自分でも、不躾な質問だとは思っている。
小鳥遊が、そんな事をするような人物だとも、思えない。
けれど、母親に虐げられていた記憶が残っている梓は、抱いた不安を疑問にせずには居られなかった。
「そんな事、出来る訳が無い。私よりも、ずっと小さな…ましてや、女の子だ。」
「なら…小鳥遊さんはきっと、大丈夫だ。平気で自分の子を、虐げる親も居ますから、」
「でも、愛せないんだ。…頭を撫でるなんて、抱き上げてやることなんて、簡単なことだろう。そんな、誰にでも出来そうなことが、私には出来無い。
血が繋がらなくとも、自分の子供だと胸を張って云える親もいるのに、私はそうはなれない…避けて、逃げてしまう、」
何もかもを諦めているような、物悲しい雰囲気を纏う小鳥遊を見ていると
梓は、その身体を強く抱き締めてやりたい衝動にかられる。
それを必死で押し殺していると、小鳥遊が緩慢な動きで、かぶりを振った。
「私も、もう酔っているのかな。いい大人が、愚痴なんて零してしまって、恥ずかしいよ。」
照れくさそうに告げる小鳥遊に対し、やましい気持ちを一瞬だけ抱いた梓は、素早く視線を逸らす。
こう云う時、男に対しては過剰に反応する性質を、恨めしくも思う。
「いえ…お互い様です。おれも、変なことを話したので、」
小鳥遊をまともに見れず、ほんの少し素っ気無い口調で返す。
すると小鳥遊は微かに口元を緩め、首を横に振って見せた。
「梓くんが打ち明けてくれなかったら、私も、きっと話すことは無かったよ。云わずに、ずっと溜め込んで…いつか何処かで、感情が爆発していたかも知れない。……ありがとう、」
丁寧に頭を下げて礼を言われ、居た堪れなくなった梓は、食事を促した。
小鳥遊に対して、倒錯的な欲望を少しでも抱いてしまった自分が、醜悪に思える。
後ろめたい気にすらなった梓は、食事中、一度も小鳥遊の方を見ることが出来なかった。
食事を終えて一息吐いた後、梓は、先に外へ出るよう促した。
訝る小鳥遊に「知人に、少し挨拶をして来ます」と声を掛けて納得させ、店内に残る。
程なくして梓の待つ席へ、上物のスーツに身を固めた男がまっすぐに近付いて来た。
優しげで品の良さそうな顔をした男は、梓の脇に立つと、丁寧な仕種で領収書を差し出す。
「ハルユキ以外の人間を連れて来たのは初めてですね。どんな関係なんです、」
問われると、少しの間、梓の視線が入り口の扉へ向く。
「偶然、駅で出会って…それ以来、何度か会っているだけの関係。」
「もう抱かせたんですか? それとも、抱いた、」
男の、落ち着いた風貌には似つかわしくない質問に、梓は呆れ顔を見せた。
「そんなんだから恋人が出来ても、直ぐ逃げられるんだ。
透冴さん、顔はいいのに中身が下劣すぎる、」
「逃げた連中には、いい教訓になったと思いますよ。人を見てくれだけで選ぶと、ろくな事にならない…とね。」
「今の自分の顔、鏡で見たほうが良い。…逃げられるのが好きなんて、透冴さんは悪趣味だ。」
「俺は、歪んでいますからね。求められ過ぎると、逆に引かれたくもなる。」
軽い口調で答える透冴に対し、梓は深い溜め息を吐いた。
この男の悪いところは、歪みを知りながらも直そうとせず
しかも、それをまったく気にしていないところだと、梓は毎度のことながら思う。
呆れ顔を崩さないまま領収書を確かめ、財布から代金を取り出した。
「外にあの人を待たせているから、そろそろ出るよ。今日も美味かった。ご馳走様、」
云いながら、テーブルの上へ代金を置いた梓の手を、透冴が不意に掴む。
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