楽園…19
しかし梓は動じることも無く、平然とした様子で相手を見上げた。
「あずさ、」
声音が、独特で親密なものに変わる。
ニュアンスが微妙に違う、この男特有の呼び方に、梓は一瞬だけ劣情を抱く。
それを見抜いたかのように、透冴の双眸が細められた。
「さっきの人、ゲイじゃないんだろう。やめておいた方がいい…まっとうな人間を愛したら、辛いだけだ。」
「…まだ、そう云う気持ちにはなっていない。」
「でも、いずれなる。気付いた時には好きになっていた…なんて、良く有る話だろう、」
「その時は、二度と逢わないようにする。」
断固として言い放つ梓に、透冴は微苦笑した。
他人に拒まれ、傷付くことを人一倍恐れている梓は、それが最良の手段だと思っている。
自分を愛してくれる人間だけを好きになろうと決めても、なかなか思い通りにはゆかず
まっとうな人間を好きになってしまう事が、あった。
そんな時は、決まって自分から身を引き、逃げるのだ。
梓のそう云った姿が滑稽に思え、透冴は笑いを咬み殺す。
必死で逃げ回る梓は、臆病な子供の姿に近い。
その癖、泣くことはせず、弱さを見せて来ないものだから………此方は、むきになって結果的に執着してしまう。
自分と同じような質の、屈折して歪んでいる人間にとって
梓は容姿も完璧に整っている分、さぞかし、壊したり崩し甲斐が有ることだろう。
表情を変えずに透冴は暗い考えを抱き、梓の顔に残った痣を見据える。
殴られただけでは、梓は壊れないし、崩れもしない。
完璧に、梓を壊せるものがあるとすれば………それは、ハルユキの存在だけだろう。
けれど彼はもう、この世にはいない。
愛しい者を確実に壊せる手立てが、無くなってしまったことを心から残念に思う。
そんな歪んだ想いを梓に悟らせる隙も無く、透冴は掴んでいた手を離した。
「楽園は見つかったんですか、」
普段の声音に戻し、丁寧な口調で問うと、梓はかぶりを振って見せた。
そのまま席を立った梓が、店の入り口へ足を進める。
見送る為に後を追いながら、透冴が声を掛けた。
「梓…、ハルユキは死んでしまったんですよ。彼は結局、楽園を見つけられなかった、」
「分からない。死んで、辿り着けたのかも知れない。」
「魂が楽園にゆくとでも? そんな夢のような話、馬鹿げている。…ハルユキは辿り着けなかったんですから、梓も、もう諦めたらどうです、」
「約束、したんだ。誰かと約束を交わすなんて、初めてだった。だから尚更、守りたいし、叶えたい。」
此方に背を向けたまま、扉の前で立ち止まって答えた梓を、透冴は暫し見据えた。
梓の胸中は、既に見抜いている。
それを口にすれば、どんな反応を示すのか無性に知りたくなると同時に、梓の上辺を崩してやりたい衝動にも駆られた。
「……ハルユキが死んでも泣けなかった事に、引け目を感じているんですか、」
瞬間、梓が勢い良く振り向いた。
その表情は、困惑げなものに変わっている。
普段、何気ない素振りを繕っている彼の表面を一瞬でも崩せた事に、透冴は大いに満足した。
梓の返答にはまるで興味が無く、すぐさま言葉を続かせる。
「もしも見つけられなかったら、俺のもとに来てください。俺の傍が楽園…なんて事も、有り得そうですから。」
「………誰かの傍が楽園だなんて、思いたくない。おれは、そんな風には、甘えたくない、」
先刻の動揺は跡形も無く、頑なな態度を取る。
いつもの態度に戻ってしまった梓へ笑いかけながら、透冴は丁寧な仕種で扉を開けてやった。
外気の冷たさに、梓の眉が顰められる。
「良く云いますね。どうでもいい事では甘えて来る癖に。………抱かれたい時は、いつでも来いよ、」
梓の耳元で囁いた後、透冴は雑に、背を押した。
外へ押し出された梓の背後で、扉の閉まる音が聞こえる。
肩越しに振り向いた梓は、暫くの間、扉を睨むように見据えていた。
中途半端に熱を上げた身体が、外気で冷まされてゆく。
遣る瀬無さが募り、逃げるように目線を移した梓は、小鳥遊の姿を捜しだす。
が、小鳥遊は何処にもいない。
先に帰ってしまったのかと思案した矢先に、駅とは逆の方面から呼び声が響いた。
顔を向けると、足早に近付いて来る小鳥遊の姿が映る。
「すまない、待たせたかな、」
「それは…おれの科白です。挨拶だけのつもりが長引いてしまって、すみません、」
「気にしなくていいよ。退屈もしていなかったし、」
申し訳無さそうに頭を下げると、小鳥遊の柔らかな声音が耳に届く。
たどたどしく顔を上げた梓の目の前に、缶珈琲が差し出された。
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