楽園…20

「向こうの自販機で、これを買って来たんだ。店を出たら寒くてね…梓くん、寒いのは嫌いだろう。だから、何か温かいものを買っておこうと思って、」
「ありがとう、ございます。…幾らですか、」
「奢るよ。美味い店に連れて来てくれた、お礼だ。」
 小鳥遊の何気ない気遣いが、嬉しくて堪らない。
 缶珈琲を受け取った梓は表情を緩め、両手で缶を包み込む。
 手の平から伝わって来る熱に、安堵の息が無意識に零れる。
 そんな梓に笑い返していた小鳥遊は、不意に財布を取り出した。

「そうだ、忘れるところだった。梓くん、代金は、」
「半分だから、6千円ですね。」
「…そんなに安かったかな、」
 本当は倍以上の額だが、梓は平然と嘘を吐いた。
 始めは、首を傾げて訝っていた小鳥遊だったが、酔っている所為で深く考えず、すぐに代金を手渡す。
 受け取った代金を財布にしまった梓は、一度腕時計へ目を通した。

「そろそろ、行きましょう。終電を逃したら、帰れなくなってしまう、」
 駅方面に向けて進み出した梓は、近道を使い、路地裏を通り抜ける。
 人気の無い道を暫く進んでいると、それまで隣を歩いていた小鳥遊が急に立ち止まった。
「いい気分だなぁ…梓くん、星が見えるよ、」
 夜空を仰ぎながら、悠長なことを云い出す。
 いささか呆気に取られた梓は足を止めて振り返り、小鳥遊の状態を素早く察した。
「…小鳥遊さん、もしかして酔っているんですか、」
 立ち止まったまま動こうとしない相手へ、近付く。
 すると、小鳥遊は何とも頼りない表情を見せ、沈んだ声音を零した。
「さっきの店で、私の話が終わった後…梓くん、こっちを見ようとしなかっただろう。嫌われてしまったのかと、内心…焦っていたんだ。…なんだか、女々しいな…自分が情けないよ、」
 深々と溜め息まで吐かれ、梓は気まずそうに目を逸らす。

 情緒的な目で見てしまいそうだったから―――などと、正直に云える筈も無い。
 どう誤魔化すべきか考えあぐね、無意識に、缶を強く握り締める。

「それは、……誤解させてしまって、すみません。小鳥遊さんのことを嫌いになったとか、そう云う訳じゃないんです。」
 結局、拙い言葉しか紡げず、梓は不甲斐無い気持ちになった。
 まだ足元はしっかりしているものの、自分も、相当酔っているのだろう。
 普段なら、嘘を吐いたり誤魔化すことには長けているのに、頭が上手く働かない。

「梓くん…手を繋がないか、」
 その所為で、梓は、唐突に掛けられた言葉を上手く呑み込めなかった。

 流れが、あきらかに、おかしい。
 小鳥遊をじっと見据えていると、相手は構わず、手を差し出して来る。

「繋ごうよ。手を繋ぐ機会なんて滅多に無い、」
「……小鳥遊さん、やっぱり酔ってますね。大丈夫ですか、ちゃんと帰れます?」
 会話に脈絡がないことで、小鳥遊が酔っていることを確信する。
 小鳥遊が無事に帰宅出来るかどうかが心配で、繋ぐどころでは無い。
 差し出された手を眺めるだけで、梓は思案に暮れた。

 小鳥遊は妻子持ちなのだから、外泊させる訳にも、自分の家へ泊める訳にも行かない。
 かと云って、小鳥遊の自宅まで送り届けると云うのも、気が引ける。
 上手く働かない頭で、やがて考え付いた方法は、投げ遣りと云っても良かった。

「此処から真っ直ぐ進めば、駅前のロータリー付近に出ます。もし電車で帰れそうにないなら、そこでタクシーを捕まえましょう。料金は、おれが払…、」
 だしぬけに手を掴まれて、梓は言葉を失くした。
 不意を衝かれた梓の表情は、動揺が色濃く浮かんでいる。

「…小鳥遊さん、一体、どう云うつもりですか、」
 声音には、憤りは微塵も感じられない。
 それを察してか、小鳥遊は何も云わずに目を伏せて指を動かし、手を繋いで来た。
 自分の手を包み込んでくれる、優しい感触を前にしては振り払う気にもなれず、梓はひどく戸惑う。

 こんな風に、包み込むように繋がれたことなど、今まで無かった。
 ハルユキとは手を繋いだことすら無いし、客とは飽く迄、仕事として何回か繋いだだけだ。

 こんな温かさも、心地好さも知らない。
 手を繋ぐと云う行為で、こんなにも心が落ち着くなんて、知らなかった。



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