楽園…21

「こんな風に繋いだの、初めてかも知れない…、」
 言葉が無意識に、ぽつりと零れる。
 小鳥遊は黙ったまま更に強く、手を握って来た。

 しっかりと絡みついて来る指先が、熱くて
 手の平から伝わる脈拍が、ひどく心地いい。

 梓は少し躊躇いながらも、小鳥遊の手を握り返した。
 手の平が密着して、体温が重なり合う。
 他人にどれだけ身体を預けても、決して得ることのなかった、強い安堵感に包まれる。

「……温かいですね、小鳥遊さんの手、」
「梓くんの手も…温かいよ。」
 控えめな声を耳にして、梓は徐に小鳥遊を見上げた。
 ずっと梓を見つめていた為、互いの視線はまっすぐに合わさる。
 小鳥遊が、ほんの少し口元を緩めて、ぎこち無く笑う。
 それが可笑しく、梓は微かに笑い声をたてた。
 あどけない笑い顔を目にした瞬間、小鳥遊は無意識に身体を動かした。
 何の迷いも無く、顔を寄せ、唇を重ねる。

 以前したものよりも深く、長い口付けをされるが
 不意打ちを食らった梓は相手が離れるまで、ただ呆然としていた。

「じゃあ、また…、」
 瞠目している梓から顔をそむけ、小鳥遊が短い言葉を放つ。
 返事も聞かず、逃げるように駅方面へ向かう足取りは、意外にもしっかりとしていた。

 小鳥遊の、頼りない背中を眺めていると、無性に、追いかけたい衝動が込み上げて来る。
 それを掻き消すようにして視線を逃した梓は、指先で自分の唇に触れてみた。

 さきほどの口付けが、酔った上での酔狂なのか、良く分からない。
 けれど小鳥遊は、まっとうな人間なのだ。期待は、しない方がいい。
 そこまで考えて、梓ははっとした。

「……何を考えているんだ…おれは、」
 己の浅ましさに、自嘲的な笑みが浮かぶ。
 視線を戻せば、小鳥遊の姿は既に無かった。


 ―――――期待なんて、そんなものを抱くこと自体、間違っている。
 自分自身を律するように、梓はきつく、瞳を閉ざした。




 あの夜の出来ごとを、しっかりと覚えていた小鳥遊は、開口一番に謝罪しようと決めていた。
 だが、あの日以来、梓はいつもの場所に現れなくなった。
 もう三日も会えない日が続き、小鳥遊は不安を抱き始める。

 あんな事をした自分を、避けているのでは無いだろうか。
 常軌を逸した行動だと自分でも思っている為、そうとしか考えられなかった。

 小鳥遊はプラットフォーム端の喫煙所で、時間の許す限り、今日も梓を待ち続ける。
 取り出した煙草を咥えて火を点け、深々と紫煙を吐きながら、あの夜の出来ごとを思い出す。


 一回目のキスは……体裁が大事だろうと梓に云われて、半ば、むきになってしたものだ。
 しかし、二回目は違う。
 挑発されたからでもなく、身体が無意識に、動いた。

 アルコールの所為だと考えたが、躊躇いや葛藤を少しも抱かずに
 男とキスをするなど、酔っていても出来るわけがない。

 思案に暮れていた小鳥遊は、ふと、指輪に目を向けた。
 何が有ってもそれを外さないのは、梓に云われた通り体裁が大事だからだ。
 体裁を気にし、保身ばかり考えている自分を、強く意識させる指輪が
 まるで枷のように重く感じる瞬間が、何度もあった。
 だが、梓と一緒にいた時は不思議と重さを実感しなかった。


 家庭を持って働いて、ちゃんと社会に溶け込めている普通の人間だと、周囲からは思われていたい。
 そんな願いを持っていたし、今でも、面倒ごとも避けて楽に生きてゆきたいと、強く思っている。

 ………けれど。
 梓の力に少しでもなれるのなら、面倒なことさえも、受け入れられる気さえした。

 己の心境の変化に多少驚くが、半分は、そんな自分を嬉しくも思う。
 口元を微かに綻ばせるも、腕時計を確認すると無意識に舌打ちが零れた。

 そろそろ会社へ向かわなければ、いけない。
 スタンド灰皿へ煙草を捨てながら、小鳥遊は梓の姿を目で探す。
 しかし、求めている姿は今日も無く、深々と溜め息を吐いて喫煙所を後にした。


 ――――――どうして、あの時、身体が勝手に動いたのか。
 梓にまた出逢えたら、薄々分かり掛けているものが
 確かなものに変わりそうな予感が、した。



次頁からは暴力描写が有ります。
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