楽園…22

 窓の無い、真っ暗な部屋。
 耳をすましてみても、聞こえて来るのは己の呼吸音と心音だけで、ほかの物音は一切しない。
 両手を後ろ手に革製の輪で拘束された梓は、冷たい床の上に横たわっていた。
 何度か殴打された所為で、身体中が痛い。
 痛みが少しでもましになるように、身動きもせず、じっとこらえる。


 小鳥遊と食事をした日の翌日、明け方近くに
 今すぐ店へ来いと、電話で土屋に呼び出された時は何の疑いも持たなかった。
 店につき、ひどく不機嫌な様子の土屋を前にして、彼の感情を電話越しで見抜けなかったことを悔やんだ。


 ―――――何故こんな目に遭うのか、よく考えておけ。
 この部屋を出てゆく際、冷たく言い放った土屋の顔が、脳裏に浮かぶ。
 恐らく土屋は、仕事をさぼった勝手さに憤っているのだろう。

 土屋に殴られて切れた口の端を、軽く舐めてみる。
 正確な時間は分からないが、血や傷口の乾き具合からして、大分時間は過ぎているようだった。
 顔の腫れも引いているようだが、土屋が何度も訪れて暴行して来る為、痛みは一向に和らぐ気配が無い。

 店の地下室に閉じ込められてから、どれほどの時間が経過したのか分からないが
 ハルユキの誕生日は、もう過ぎてしまった気がした。
 事故死した日から丁度、ひと月後には、ハルユキは19歳になる筈だった。

「……二人で、また、祝いたかったな…、」
 呟きながら瞳を閉じてみても闇だけしか見えず、視界に変化は無い。


 真っ暗で静か過ぎる、冷えた空間。
 服越しに、床の冷たさも感じる。
 体温が奪われてゆく感覚に、母親の仕打ちを思い出しそうになった梓は、もう何度もハルユキの姿を脳裏に浮かばせていた。
 その度に、途方もない切なさが込み上げて来る。

 小鳥遊が近くにいた時は、小鳥遊の言動を、ハルユキとの想い出に繋いでいたから
 切なさも悲しみも抱かずに、穏やかな気分で辿ってゆけた。
 だけど、今は―――――思い出しても、辛いだけだ。


 心が、痛い。
 ハルユキに逢いたくて、逢いたくて、たまらない。
 あんなにも近くにいたハルユキが、遠くて、何処へ手を伸ばしても、届かなくて。


「…ハルユキ、……逢いたいよ、」
 ぽつりと、弱々しい声が零れ落ちる。
 辛いだけだと分かっていても、梓は、記憶の中のハルユキに縋らずにはいられなかった―――――。




 当時、16歳だった梓は、ずっと心に決めていたことを実行した。

 それまで、母親に殺される前に家を出ようと、密かに決意はしていた。
 けれど、あの家を出たら何もかもが無くなってしまいそうに思えて
 なかなか実行が出来ず、時間ばかり過ぎ去っていた、ある日。
 高校の授業中に教員が「明日と云うのは文字通り、明るい日だ」と、説いたことがあった。

 自分のあすは、明るくもない。
 母の顔色を窺って、怯えているだけの日々。

 ―――――あすに、光なんて、無い。
 そう思った瞬間、急に、すべての事から逃げ出したい気になった。

 ぜんぶ捨てて、何処か遠くへ。
 そんな強い衝動に動かされ、気付けば、夜の街に訪れていた。
 昼間には何度か足を運んだ事のある歓楽街の入口で、ベンチに座り込み、雑踏を呆然と眺める。
 遠くへ行きたいと願っても、実際は何処へも行けないと云うことを思い知った梓は、地面を睨み、悔しげに歯を咬んだ。

「きみ、一人? 若いよね…どうしてこんな所に居るのかな、」
 その瞬間、見知らぬ男に声を掛けられ、好色そうな目つきで見られる。
 中学の頃には既に自分の性癖に気付いていた梓は、嫌悪感も抱かず、すぐさま男の意図を察した。

(求められているなら、もう、何だっていい。)
 投げ遣りな考えを抱いた梓は、縋るような眼差しを作って相手へ向けた。

「今日は帰りたくないんだ……でも、すごくさびしい、」
「それなら、僕が朝まで傍にいてあげるよ。おいで、」
 欲を含んだ男の声に頷き返し、梓が立ち上がった瞬間―――。

「ぼくの恋人に、触らないでくれるかな。」
 唐突に、横から割り込んで来た少年が、不機嫌そうな声を男に放つ。
 見も知らぬ相手の言動に驚き、人違いだと梓が告げるよりも先に、少年が目を合わせてくる。
「ほら、いつまでも拗ねるなよ。ぼくが悪かったから、いっしょに帰ろう。」
 優しい声音を響かせながら、少年は梓の腕をやんわりと掴んだ。


 ――――いっしょに、帰る。
 少年の言葉に鮮烈な印象を受け、梓は思わず、頷いてしまう。

「おい…それは無いだろう。僕は、その子が気に入ったんだ、」
 声を荒げた男が、少年の肩を乱暴に掴んだ。



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