楽園…23

 内心焦りながら見守る梓の前で、少年は男に向けて何かを囁く。
 途端に男の表情は満足そうなものに変わり、あっさりと肩を離すと、その場を去って行った。
 その様子を半ば唖然として見送っていた梓は、やがて視線を少年へ向け直す。

 少年の背丈は自分より少し高く、顔立ちも綺麗に整っている。
 何処となく儚げに見えるのは細身の所為かと考えていると、視線に気付いた少年は片目を閉じてみせた。

「ぼくが働いている店、会員制なんだ。会員になる為には結構な金が要る。…無料にしてやるって言ったら、引いてくれた。」
「…もし、さっきの人が殴りかかって来たら、どうするつもりだったの、」
「その時は喜んで相手になるさ。喧嘩は強いほうなんだ、」
 儚げな容姿からは想像もしなかった言葉が、紡がれる。
 だが、衒い無く言ってのける姿は清々しく思えた。

「ところでキミ、何で此処に居るの。この界隈が、どんな処か知らない訳じゃないだろう、」
「ちゃんと知ってる。それに、おれ、さっきの人についてゆこうと思った。」
 梓の声に非難は無いが、瞳に困惑げな色が浮かんでいる。
 それを察した少年は一瞬だけ眉を寄せ、やがてかぶりを振った。
「邪魔して悪かったよ。でも、さっきのヤツは、やめた方がいい。」
「どうして、」
「性癖が最悪なんだ。相手の首を絞めなきゃ勃たないし、ヤツのセックスは暴行だ。殴りながら犯す。……キミみたいな綺麗な顔をした人間が、ぼこぼこにされるのは嫌だなって思ったんだ。」
「…殴られるのは平気だけど、首を絞められるのは嫌だな、」
 梓は怯む様子も無く、平然と言い放つ。

「面白いな、キミ。……此処に来たのって、やる為じゃないんだろう。ひょっとして、家出…とか、」
「おれは欲求不満を解消する為に、此処に来たんだ。」
「嘘だね。だってキミ、途方に暮れた顔をしている。」
 嘘を吐いて逃れようとした梓だったが、笑いながら指摘され、思わず顔が強張る。
「図星、って訳か。」
 少年が目を細めると、梓はもう何も云えず、気まずそうに黙り込んでしまう。
 梓のそんな態度を前にしても、少年は呆れる様子も無く、にこやかに笑った。
「ゆき場が無いなら、ぼくの住んでいる処に来いよ。」
「なんで…、」
「理由が無いと、いけないの、」
「だって変じゃないか。見も知らない奴を、家にあげようとするなんて、」
「生真面目だな、あまり拘るなよ。…今日は、誕生日なんだ。」
「……誰の、」
「ぼくの。だから、いっしょに帰ってくれるヤツが欲しい。」
 少年は、ことも無げな様子で、無茶苦茶な事を云う。
 が、少年の紡いだ言葉に、梓はまたしても心が強く惹かれた。

「いっしょに、帰る…?」
「そう、帰るんだよ、一緒に。帰ったら、ただいまと言って、おかえりと言い合うんだ。」
「そんな挨拶、誰とも交わした事がない。…おれ、そう云うの、誰かに言って欲しかった、」
「なら、これからは、ぼくが幾らでも言ってあげるよ。」
 恩着せがましくも無い、温かな言葉が、梓には衝撃的だった。
 少年に視線を注ぐと、彼は、ひどく嬉しそうに笑う。
 それがあまりにも眩く思えて双眸を細めるが、少年の笑顔から目を離す事は出来なかった。


 少年は、すべてを見透かしているかのような瞳をしているのに
 憐憫も蔑みも無い、光に満ちた言葉をくれた。
 梓にとって少年は………ハルユキは、鮮烈な光、そのものだった。

 光なんて無いと思っていた、明日を
 のぞみも絶え、怯えて諦め続けていただけの日々を、変えてくれた。

 その日その日が終わってしまうのが、惜しくなるほどに
 毎日を、明るく、染め上げてくれた―――――――。




「誰が眠っていいと云った、」
 上から、冷たい声が降って来たと同時に、強い襲撃が腹部を襲った。
 容赦なく腹を蹴りつけた土屋は、苦痛に呻く梓を冷ややかに見下ろす。

 真っ暗だった部屋には、いつの間にか明かりが灯り、土屋の不機嫌そうな顔がはっきりと見える。
 床には、梓の乾いた血が点々とこびりついていた。

「それで、分かったのか。自分が何故、こんな目に遭うのか…、」
「…仕事を、勝手に休んだ、ことなら…謝ります…お望みなら、土下座でも、」
 歯を喰いしばって苦痛を堪え忍び、声を搾り出して何とか答えると、土屋は低く笑う。
「そんな事ぐらいで、この俺が、此処まで腹を立てる訳が無いだろう、」
 馬鹿にするような物言いに、梓は焦り、胸中で答えを探る。
 しかし、土屋はそれを待たず、梓の髪を乱暴に掴んで顔を上げさせた。



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