楽園…26

「……お前は、どうあっても俺の物にはならないんだな、」
 立ち上がった土屋が、苛立たしげに呟く。
 床に倒れ込んだ梓へと、冷たい双眸が注がれる。

「何を…言っているんです、おれは土屋さんのものだ。」
「口ではそう云っても、目は違う。お前は、俺の物になる事を認めようとしない。すべてを捨てようとしないだろう…癪に障る、」
 舌打ちを零し、梓の右腕を容赦なく踏みつける。
 微かな悲鳴が聞こえても構わず、力を込め、梓の骨を軋ませた。

「また骨をへし折ってやろうか、」
「…それで、土屋さんの気が…済むのなら、」
 残忍な科白を浴びても、やはり梓は怯まない。
 誰にも支配されない、確固たる想いを瞳に浮かばせて此方を見上げている姿に、心底苛立つ。

「お前…いっそ、この場で死ぬか。」
 声のニュアンスが、鋭く冷たいものに変わった。
 覆い被さって来た土屋が、徐に、梓の首へ指を絡める。

「…死ぬのは、嫌です。ハルユキとの約束を、まだ果たしていない。」
「死んだら…あのガキに会えるかも知れないだろう、」
 低く、甘い囁きに、梓の双眸が大きく見開かれた。
 ハルユキの笑い顔が、脳裏に浮かぶ。


 ―――――彼は、死んで、辿り着けただろうか。
 ―――――おれも、そこに辿り着けるだろうか。
 ハルユキに会えるのかと思うと、逃げる気にもなれなかった。


 自分には、大切なものが欠けている。
 それが何なのか、はっきりとは分からないけれど
 己の中にある空洞は、ハルユキが消えてから塞ぐ手立てを無くした。
 大き過ぎるそれを抱えて生きるには………もう、疲れた。


 傷付けて、傷付けられて。
 この世界には、痛みだけしか、無い。

「ハルユキに…逢いたい、」
 ぽつりと呟いて、瞼を閉ざす。
 間をあけず、土屋の手に、ぐっと力が加わった。


 ―――――逢いたい。
 心から、強く願う。
 けれど次の瞬間、脳裏に浮かんだのはハルユキの姿では無くて――――。

 声も無く、小鳥遊の名を呼び、自分の想いに戸惑う。
 薄く開いた唇が、わなないた。

 更にきつく首を絞められ、梓は息苦しさにあえぐ。
 無意識に土屋の手をひっかくが、力は緩まない。


 …………………好きなんだ。おれ、小鳥遊さんのこと。

 ひどく切ない感情が押し寄せて、胸を焦がす。
 土屋の腕を握り締めたのを最後に、梓の意識は途切れた。




 梓の姿を見かけなくなってから、2週間以上が過ぎた。

 ひどく気掛かりになった小鳥遊は、以前一度だけ彼と訪れた料理店へ、仕事帰りに赴いた。
 迷いながらも何とか辿り着けた時には、あまりの喜びで自分を褒めてやったが
 店内に入り、梓の姿が何処にも無い事を知ると一気に気落ちする。

 避けられているのだと思っても、諦められず、会いたい気持ちは募るばかりだ。

 以前と同じ席へ座った小鳥遊のもとへ、ウェイターが歩み寄り、メニューを差し出して来る。
 慣れていない小鳥遊は、慌てた様子で料理を選び、チーズと温野菜のサラダ
 鯛のアクアパッツァや魚介のリゾットなどを、早口で注文する。
 ウェイターが軽やかな足取りで去った後、小鳥遊は徐に携帯電話を取り出した。

 梓と連絡が取れる手段は一つも無く、自宅も勤め先も知らない現状に、溜め息が零れる。
 暫く画面を眺めていたが、梓が訪れないかと、入口を凝視し始める。
 しかし長くは持たず、落ち着かない様子で携帯電話をしまいながら再び店内を見回した。
 すると、店の奥にいた、二十代後半らしき男と目が合う。
 ダークスーツを着こなした、品の良さそうな男は此方をじっと見据えていた。

 振り向いて背後を確認するが、後方には壁が有るだけで珍しいものは見当たらない。
 どうして此方を見ているのか分からず、訝りながらも男に視線を戻す。
 それを待っていたかのように男は口元を緩め、近付いて来た。

「初めまして…この店のオーナーの佐伯 透冴(とうご)と申します。」
 男は目の前に立つと、丁寧な口調で名乗った。
 オーナーに声を掛けられる覚えなど無い小鳥遊は、思わず表情を硬くして眉を寄せる。
 怪訝そうな小鳥遊を前にしても、透冴の微笑は崩れなかった。
「貴方は知らないと思いますが…俺は一度だけ、貴方を見た事が有ります。以前、この店に梓と…、」
「梓くんを知っているのかっ、」
 小鳥遊が勢い良く席を立って声を荒げ、透冴の言葉を途中でさえぎる。



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