楽園…30

 それから二十日ほどで退院した梓は、退院当日、おもて向きのオーナーに呼び出され、客の予約が入った事を聞かされた。
 傷痕がまだ残っている身体で、客を満足させられるかどうかも危ぶまれると云うのに、相手は意に介さない。

 その態度からして、土屋にそうするよう言いつけられたのだろうと察した。
 土屋の真意はまったく分からないが、いっその事、彼の望む通りにしようと梓は投げ遣りに決めていた。
 それに、ハルユキとの想い出が残っている店を辞める気も、今は無かった。


 …………土屋が、なぜ自分を殺さなかったのかは、分からない。
 単なる気まぐれなのか。それとも、流石に、殺人を犯しては拙いと踏んだのか。
 地下室の扉が開け放してあったのも、疑問だった。
 逃がすつもりで開け放したのかすら、梓には到底分かる筈も無かったが、土屋の考えを推察せずにはいられなかった。

 そうする事で、ほかに意識を向ける事で――――小鳥遊への想いから、目を背け続けた。


 外を眺めていた梓の耳に、駅名を告げるアナウンスが流れる。
 梓は腕時計を確認し、待ち合わせの時刻に充分間に合うと知って息を吐く。
 普段と違い、今回はどんな客が相手なのか知らされていない。
 それも土屋の考えの内なのだろうと思案し、瞼を閉じる。
 瞼の裏に見えるのは、優しげな、小鳥遊の姿。


 ―――――大丈夫だ。
 今までのように逃げて、忘れてしまえばいい。
 その姿を懸命に掻き消しながら、自分自身に強く言い聞かせる。

 小鳥遊に拒まれたら、きっと、もう、立ち直れそうにない。
 だから余計に、彼を避けて、逃げなければいけない。
 瞳を開けた梓は、決意を揺らげまいとするように、窓の外を一心に見つめ続けた。




 乗降客のあふれる東口駅前で、他人との間隔をあけながら壁に寄り掛かっていた梓は、なにげなく雑踏を眺める。
 待ち合わせ時刻の十数分前に辿り着いたが、客らしき相手は一向に現れない。
 それから、もう既に三十分以上は過ぎている。
 このまま待ちぼうけを喰うのかも知れないと思案するが、土屋の怒りを再び買うのは避けたい為、場を立ち去ることも出来ずにいた。

 1時間待っても現れなければ店に連絡を入れようと決め、腕時計を確認したのち、眼前の街並みを見据える。

 昼間と、まったく違った顔を見せる夜の街は、賑わい、ネオンが多彩に輝いている。
 昔から何度も、自分の居場所を求めるように足を運んだ所為で見慣れた景色だったが
 退屈を少しでも紛らわそうと、目を凝らす。そこへ、一人の男が近付いてきた。


「キョウヤくん…だよね?」
 柔らかな声が耳に届くと、梓は街並みから目を離し、振り向く。
 優男風の相手に素早く視線を走らせ、見た感じでは普通だと、分析する。
 顔付きは若々しいが、壮年特有の貫禄と落ち着いた雰囲気を持っていた。

 相手は、遅れたことを詫びる様子も見せず、短い挨拶をした後に久我山だと名を告げた。
 唯一聞かされていた予約客の名と一致し、梓はうやうやしく頭を下げる。
 だが、客に恥は掻かすまいと、周囲の視線が向けられぬよう素早くおもてを上げた。

「顔も知らされていなかったので、正直云うと、外見に期待はしていなかったんです。…驚きました、おれの好みだ、」
 梓は微笑し、平然と世辞を口にする。
 それを本心だと捉えた久我山は気を良くして、笑い返した。

「じゃあ…これからどうしようか。暫く街を歩くか、食事をするか…少し飲みに行くかい? それとも…、」
 意味深に、久我山の双眸が細められる。
 瞳に浮かんだ劣情の色を瞬時に悟った梓は、頷き、歓楽街のほうを目で差した。
「自分の好みの人が近くにいたら、我慢なんて出来ません。…早く二人きりになれる場所に、いきたい。」
 声音を変え、ねだるように告げると、久我山の瞳がほんの少し見開く。
 続いて、軽くかぶりを振り、浅い息を洩らした。
「参ったな…想像していたよりも、ずっと魅力的だ。……行こうか、」
 梓の隣へは並ばず、久我山は歓楽街のほうへ進み出した。




 まるで人目を気にするように、少し離れて歩いていた久我山は
 同類の男達が目立つ界隈に出ると、態度をがらりと変えた。
 梓の隣を歩いて寄り添い、まるで当然のように、肩に手を掛けてくる。
 けれど梓は拒む様子も見せず、自分からも久我山の腰へ手を回した。




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