楽園…32

(それなら………もう、いっそのこと…、)
 痛烈な絶望感と自責に叩きのめされた梓の胸中に、暗い考えがよぎる。

 母親の本当の望みにも気付けずに、間違いをおかしただけで無く、
 何よりも大切な存在を、ハルユキを……自分の所為で、苦しめていた。
 咎は、あまりにも大きすぎて、他に、どんな方法で償えばいいのかも分からない。

 ―――――いっそのこと、ぼろぼろにして欲しい。
 傷つけて、苦しめて、もっともっと責め抜いて。
 二度と、立ち上がることも出来無いほど…………駄目に、してほしい。
 己を傷つける償い方だけしか浮かばず、そこまでしなければ、何も知らなかった自分を許せそうに無い。


(ハルユキは、おれを……怨んだのかも、)
 瞬間、息も出来無いほどの恐れや不安が、波濤のように襲ってくる。
 何よりも大好きだったハルユキに怨まれていたのだとしたら
 梓にとって、それは、すべてが終わってしまったも同然だ。
 けれど、ハルユキがこの世界にいない今は、本心を確認する手立ても無かった。

「…店のオーナーが教えてくれた通りだな。ユキトくんの事で突けば脆いって…今のキョウヤは子供みたいだ、」
 やがてホテルの前で足を止めた久我山が、見くだすように笑う。
 視線を梓から離し、入口を目で差しながら久我山は言葉を続かせた。

「此処で良いんだったかな? キョウヤの身体、傷痕だらけだって聞かされたけれど、僕はそっちの方が好みだよ。
他人が残した痕を見ると、より多くの痕を刻んでやりたくなるからね……すごく、愉しみだ。」
 久我山の瞳に酷薄の色が濃く浮かんだのが見えたが
 償いを切望している梓は、逃げる気などおきない。


「さあキョウヤ…行こうか、」
「あずさ…くん、」
 建物の中へ促す声とほぼ同時に、懐かしい声が耳に届く。
 内心、ひどく驚いた後、身体の奥底から強い安堵感が込み上げてくる。
 梓は開き掛けた唇を閉じ、きつく下唇を咬んだ。
 安堵してしまった自分が、どうしようもなく浅ましく思えたのだ。

「…梓くん、」
 声のしたほうへ目を向けられない梓に、再度、声が掛かる。
 先刻よりも強い口調で呼ばれ、梓の心はひどく揺らいだ。
 だが相手を見ることはどうしても出来ず、拒むように俯いてしまう。
 そんな梓に、相手のほうから近付いてきた。

「良かった、ずっと逢いたかった…すごく、気掛かりだった。」
 責めるものでもない柔らかな声が掛かり、それだけで梓の胸を熱くさせる。
 緩慢な動きで顔を上げると、優しげで穏やかな雰囲気をにじませている、小鳥遊の姿が目に映った。
「……小鳥遊さん、どうして、こんな処に、」
「梓くんが以前連れて行ってくれた料理店の、オーナーから教えて貰ったんだ。」
 気恥ずかしそうに答える小鳥遊を前にして、梓は不意に眉を顰めた。

「…あの人は、質が悪いんだ。なにか…なにかされませんでしたか、」
 案じ顔の梓が質問をぶつけると、小鳥遊は一瞬だけ表情を硬くした。
 それを見逃さず、やはり何かあったのだと察し、口をつぐむ。
 梓は憤りを覚え、小鳥遊に再度言葉を掛けようとした途端、久我山が割って入った。

「もう、話を終わらせてくれないかな? 僕は気が長いほうじゃないんだ。」
 不機嫌な声が響くと、梓は微かに息を呑む。
 仕事や、久我山のことなど、まったく頭になかったのだ。
 小鳥遊に出逢えただけで他の事が気にならなくなるようでは流石に、重症だとも思う。

「梓くん、この人は…?」
 小鳥遊の遠慮がちな問いに、梓は即答出来ず、視線を逸らす。
 まっとうな人間の小鳥遊には、男を相手にしていることなど知られたくもない。
 しかし、ただの知人だと云おうにも場所が場所なだけに、誤魔化しにくい。
 どうするべきか悩む梓をよそに、久我山が当然の顔で答える。




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