楽園…33

「僕は今夜の予約客だ。時間が惜しい…もういいだろう。行こう、キョウヤ。」
 腕を強く掴んで無理に引き、梓を建物のなかへ促そうとした。
 小鳥遊は、黙したままで何も云わない。
 その沈黙が嫌悪ゆえのものだと捉えた梓の気は、一気に重くなる。


 ―――――ふつうでは無い性質を、知られてしまった。
 目を伏せた梓は、人格を否定される前に逃げてしまおうと考え、腕を引かれるまま進みだす。
 にわかに、小鳥遊が梓の名を呼んだ。
 足早に近付いて距離を狭めた小鳥遊は、梓の肩を掴み、強引に振り向かせる。
「待ってくれ。私は、きちんと話がしたいんだ、」
「さっきから何なんだ、あんたはっ」
 食い下がる小鳥遊に憤然とし、久我山が声を荒げる。
 が、小鳥遊は意に介さず、梓だけを真っ向から見据えていた。
 数回名を呼ばれた末に、梓は漸く小鳥遊に視線を向け直す。
 視界に入った小鳥遊の表情は若干険しく、怒っているようにも見える。
 胸中で嫌な予感が急激に膨れあがり、梓は居心地悪そうに視線を逸らした。

「話って……なんです。おれの、ふつうじゃない行動を咎めたり、拒否するものですか、」
「…梓くん、」
「今は仕事中なんだ、邪魔をしないでください。おれが、どう云う質の人間か分かったでしょう………もう、おれに構わないで欲しい、」
 最後のほうは懇願に近く、梓の表情は、ひどく痛ましげで愁いを帯びている。
 言葉を失くし、呆然とした小鳥遊の唇が、薄く開く。だが、それは言葉を零さないまま閉じてしまった。
 もう話すことは無いのだと判断し、梓は縋りつきたい衝動を必死で押し殺して、小鳥遊に背を向けた。

「久我山さん…待たせてしまって、すみません。早く入りましょう、」
 先刻とは逆に、梓のほうから久我山の手を引き、急かす。
 久我山が一瞬だけ小鳥遊に視線を向け、気落ちしているその姿を見て
 鼻の先でせせら笑ったのち、鷹揚に頷き、梓に引かれるまま足を進めた。

「待ってくれ、梓くん。」
 すると、またしても小鳥遊の声が掛かる。
 打ち驚いた梓の横で久我山は足を止め、苛立たしげに舌打ちを零し、振り返った。
「しつこい奴だ、いい加減にしろっ」
 怒声を発した久我山が、拳を握り締める。
 それに逸早く気付いた梓は、咄嗟に息を呑んだ。
 彼の拳が小鳥遊へ向けられることは、色立った久我山の様子からして一目瞭然だ。


 ―――――撲られる。
 荒々しい足取りで迫ってゆく久我山を目で追い、そう考えた瞬間、梓は無我夢中で駆け出していた。

 久我山の横を過ぎ、その先にいる小鳥遊の腕を掴んで、疾走する。
 後方から久我山の怒声が響いたが梓は振り返らず、小鳥遊を連れて逃げ出した。




「も、もう…大丈夫なんじゃ…ないか…、」
 入り組んだ道をわざと通り、路地裏を抜けた矢先に、背後で小鳥遊が限界を訴えだす。
 足を止め、振り返れば、肩で息をしている小鳥遊の姿が視界に入った。
 暫く相手を眺めた後、梓ははっとし、掴んでいた腕を離す。端整な顔には、動揺の色が濃く浮かんでいた。
「おれ、なんてことを…客から逃げるなんて、」
「梓くん、行かないでくれ。」
 慌てて来た道を戻ろうとしたが、今度は、小鳥遊が梓の腕を捕らえて引き留める。
 真剣な表情を向けられた梓は、困惑げに眉を寄せた。
 相手が小鳥遊だと思うと強引に振り払うことも出来ず、僅かに顔をそらす。
「どうして、おれなんかを捜すんです、」
「それは、その…私が…その、」
 急に狼狽し始めた相手を訝り、向き直ると、顔を赤らめている小鳥遊が目に映る。



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