楽園…34

 そんな反応をする男が、こんな界隈をうろついていたら恰好の玩具だ。特に、透冴のような男には。
 脳裏に浮かばせた考えに、嫉妬にも似た憤りが込み上げてくる。
 先刻、透冴に何かされなかったか尋ねた際、小鳥遊が一瞬見せた表情が胸の奥に引っ掛かっていた。

「小鳥遊さんは、危機感と云うものは無いんですか。こんな処まで来て…なにか有ったら、どうするんです」
 棘を含んだ声音で責めた梓は、自分でも苛立ちを抑えられない。
 ハルユキのことで心がひどく不安定になっているのも有ったが、小鳥遊に対しては歯止めがきかなかった。
 小鳥遊には、もう逢わないと決めた筈なのに、相手のほうからやって来た現状に驚いて、混乱して……そして心の片隅で、喜んだ自分がいた。

 そんな自分を許せなくて、腹立たしくて、冷静になれない。

 ただの八つ当たりだと云うことは梓も理解している。本当に怒りの矛先を向けたい相手は小鳥遊ではなく、自分自身だった。
 それなのに抑えきれず、目の前の小鳥遊に感情をすべて、ぶつけてしまいそうになる。

「す、すまない。でも、どうしても逢いたかったんだ」
 素直に詫びる小鳥遊を前にしても、梓の憤りは治まらない。
 眉を顰めた梓は、昂ぶった感情を抑制出来ないまま、口を開いた。
「こう云うの、すごく困るんだ…邪魔をされたくなかった。おれ、さっきの人に…久我山さんに、ぼろぼろにして貰う筈だったんだ。それ以外に、償い方が見つからないから……もう、どうすればいいのか分からない」
 両手で顔を覆い隠し、今にも消えそうなほどの弱々しい声をあげる梓から、目が離せない。
 これほどまでに取り乱した彼を見るのは、初めてだ。
 だが幻滅も無ければ、疎ましく思うことも無かった。

「梓くん、償いって…誰に対してなんだ?」
 ゆっくりと距離を縮めた小鳥遊の口から、ひどく優しい声音が自然に零れ出た。
 醜態を責めもしない小鳥遊を前に、梓は後先も考えられず、震えた声でハルユキの名を口にする。
「どうしてハルユキくんに償わなければ、いけないんだ」
 柔らかな声音が耳に届くと、梓の心は強い罪悪感と自責によって締め付けられる。

 ハルユキとの幸せだった日々が、色鮮やかな想い出が、すべて、崩れてゆきそうで―――。

 必死で留めようと梓は手を伸ばし、小鳥遊の胸倉を無意識に掴んだ。
 それは乱暴とは呼べず、まるで縋り付くような動きだったので小鳥遊は焦りもせず、されるがままになる。
「…おれを指名しないでくれって、ハルユキが、久我山さんに頭下げて…おれの、代わりに、傷付けられて……苦しめてたんだ、おれが、ハルユキを。大好きなのに、誰よりも大切だった…のに、傍にいたのに気付けなかった……」

 ―――ハルユキが苦しんでいたことにも気付かずに、隣で、笑っていた。

 声を搾り出した梓は、肩を震わせる。
 久我山が告げた事実が耳の奥で駆け巡り、梓を強く打ちのめす。
「そうか…ハルユキくんは、梓くんが傷付けられないよう身代わりになっていたのか」
「…はい」
 頷いた梓は、力無く、小鳥遊の胸倉を離した。
 離れ、落ちてゆく梓の手を、小鳥遊が素早く捕らえる。
「それで梓くんは、償おうとしているのか……それは、間違っている」
 梓の手を力強く握り、真っ直ぐな眼差しを向けて、はっきりと言った。

「梓くんが傷付くことは、償いにはならない。ハルユキくんが必死で守ろうとしたものを傷付けちゃいけないよ、」
「小鳥遊さん…」
 はっと息を呑んだ梓が、瞠目した。小鳥遊の言う通りだ。
 自分がしようとしていたことは、ハルユキの行為に泥を塗るだけだ。
 そしてそれは、自分自身が楽になる為だけの、逃避でしかない。
 梓は唇を震わせ、小鳥遊の手を弱い力でだが握り返した。
「どうして、小鳥遊さんはそうやって……おれを、救ってくれるんだろう」
 ひとりごとのようにぽつりと零す。



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