楽園…36

 だとしたら土屋がして来ることは、一つしかない。

 ―――痛めつけられる。

 ハルユキが守ってくれたものを無下にはしたくない一心で、梓は素早く体を動かし、逃げようとした。
 梓が逃げようとしたのは意外だったが、土屋は動じずに顎をしゃくる。
 瞬間、梓の真横から、何かが飛びかかって来た。
 土屋の専属秘書の男だと気付いた時には、梓は強い力で路上に押さえつけられていた。
「逃げるとは……つまらねぇやつに成り下がったな、アズサ」
 目の前まで近付いた土屋が、梓を見下ろして小馬鹿にするように鼻で笑う。
「おれは…もう、傷付けられるのは御免です」
「一体どうしたんだ、誰の影響でそんな考え方になった?」
「ハルユキが…おれを、守っていたから」
「ふん、あのガキか。……いいだろう、アズサ。おまえと話をする時が来たようだ」
 秘書の男に目配せすると、梓を無理矢理立たせた。
 すると土屋は梓の腕を乱暴に掴み、痛いほどの力で捩じ上げる。
「お、れは…話すことなんてありません、あの店も、辞めます」
 苦痛に顔を歪めながらも決して怯まず、毅然として言った。
 そんな梓の頬を、土屋が唐突に打つ。
「黙って乗れ」
 冷ややかな声が鋭く突き刺さったが、梓は諦めずに抗おうとする。
 そこへ、
「梓くんっ」
 遅れてホテルを出た小鳥遊が、血相を変えて走り寄ってきた。
 土屋の目が、小鳥遊を捉える。
 鋭利な刃物を連想させるその瞳に、小鳥遊は一瞬怯んだが、梓の顔に打たれた痕を見つけ、怒りを湧かせた。
 距離を詰めようとする小鳥遊の前へ、秘書の男が割って入る。
 土屋がそれを手で制すと、男はうやうやしく一礼して後退した。
「なんだ、お前は?」
「梓くんを離せ」
「……アズサ、お前のツレは質問にも答えられないのか。この俺が直々に訊いてるんだぞ、なあ?」
 酷薄な双眸が細められたのを見た瞬間、梓は強い力で、車体へと乱暴に打ち付けられた。
 不意に襲った衝撃と痛みに、思わず呻く。
「やめろっ」
 小鳥遊が声を張り上げ、土屋の胸倉を掴もうと手を伸ばす。
 あとわずかの距離で、その動きはピタリと止まった。梓の冷めた声が、聞こえたからだ。
「この人とは、さっき関係を終わらせたんです。ツレなんかじゃない、もう他人だ」

 ―――小鳥遊さんを巻き込みたくない。
 その一心で、梓は土屋の腕へそっと手を絡めた。
「土屋さんが相手にする価値もない。そうでしょう?」
「……まあいいだろう。開けろ、アズサ」
 興味を無くした様子で、土屋は小鳥遊から視線を外した。
 無感情な声音で土屋に命じられ、梓が車のドアを静かに開ける。
 後部座席に土屋が乗り込むと、ドアを丁寧に閉めた。
「梓…くん…」
 ショックに包まれた小鳥遊の声を背に受けたが、梓は振り向かない。
「さようなら、小鳥遊さん。おれのことは忘れてください」
 冷たく言い放って、運転席へ乗り込む。続いて、秘書の男が助手席につく。
 しばらく複雑な表情をしていた小鳥遊は、やがて諦めたように目を伏せる。
 遠ざかってゆく車の走行音に、ぼんやりと意識を傾けていた。



「…話ってなんですか、」
 店の二階、土屋の専用ルームで秘書の男が部屋を出た後、梓のほうから切り出した。
 土屋はソファにゆったりと腰掛け、長い両足を組み直す。
「ハルユキの件だ。あいつがなぜ死んだのか、教えてやろうと思ってな」
「なぜって、ハルユキは、事故死で…」
「事故死した理由を知っているか?」
 土屋の真意が掴めず、梓は戸惑う。
 事故死した理由など知るわけがない。だが土屋は、知っているような口ぶりだ。
 鼓動が速まり、息苦しくなる。梓は震えそうな足にぐっと力を入れ、平静を装った。
「知りません。土屋さんは、その理由を知っているんですか」
「あいつが死んだ時、その場に居たからな」
 口の端をゆっくり持ち上げ、土屋は意味深な笑みを見せた。
 衝撃的な言葉に、梓の瞳が見開く。
「まさか…土屋さんが、」
「勘違いするなよ、俺は何もしちゃいねえ。目障りなガキだったが殺しはしない。ただ、な…」
 もったいぶるように土屋が言葉を区切る。
 そのまま沈黙が流れると、梓が痺れを切らして詰め寄った。



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