楽園…38

 この山道は急なカーブが続く。山側が死角となっているので、逆斜線の車が全く見えず昼間ですら、危険だと云うのに。
 漆黒の闇に包まれた山道を猛スピードでひた走る。
 五つ目の急カーブに差し掛かった瞬間、ハルユキの単車はスリップしてカーブを曲がりきれず、派手な音を響かせた。
 ハルユキの身体が宙に投げ出され、数メートル飛んで落下した。
 仰向けで倒れたハルユキは、ピクリとも動かない。
 車から降りた土屋が静かに、ゆっくりとした足取りで近寄る。
 頭部からの出血がひどい。
 両手足は無残にも折れ曲がっている。
 虚ろな眼差しを闇に投げて、ハルユキは何か言っていた。
 慎重に膝をつき、土屋は彼の口元に耳を寄せた。
「…ら……らくえ、ん…らくえんは、ない…どこにも…ないって……あずさに…つたえなきゃ…あず、さ…に…」
 声は次第に、小さくなってゆく。
 耳をいくら澄ませても、土屋にはもう聞き取れなかった。
 立ち上がり、息も絶え絶えなハルユキを冷たく見下ろす。
 程なくして、ハルユキは一度大きく呻いてから、絶命した―――。



「間抜けな話だろう。勝負を持ちかけて、自滅しやがった」
 喉の奥でクツクツと冷酷に笑う土屋に、梓は何も言い返せない。
 それは肯定ではなく、事実に愕然としていた。
 小刻みに肩を震わせて、苦しそうに短い呼吸を繰り返している梓を、土屋が冷たく見据える。
「お前に固執するのにも、そろそろ厭きてきた。俺は、お前を殺したい訳じゃない。壊したいんだ、分かるか?」
 冷酷な笑みには似合わぬほどの、幼い子どもに言い聞かせるような柔らかい声音で問う。
 梓は答えない。目を見開き、ゼイゼイと苦しそうに息をしている。
 今にも壊れてしまいそうな姿に、土屋は会心の笑みを浮かべた。
 とどめを刺すべく、うっすらと唇を開く。
「アズサ、よく聞け。ハルユキは、お前の所為で死んだ……」

 ―――お前が、殺したんだ。



 土屋はソファに腰掛け、封筒を見据えていた。
 整った字体で『退職届』と書かれてある封筒を、つまらなさそうに手に取る。
「俺の前で壊れればいいものを……最後まで思い通りにいかなかったヤツだ」
 咥えていた煙草を指の間に挟み、煙を深々と吐き出す。
 今となっては梓に対して何の感情も持っていない土屋は、店を辞めた彼が何処でなにをしようが、ハルユキを追って死のうが興味すら無かった。
 土屋の興味は、もう次の男娼へ向いている。
 煙草の先端を封筒に押し付け、燃えてゆくそれを無関心な手付きで、灰皿へ放り込んだ。



 静まり返ったプラットフォームの端で、ひとりの少女が柵にもたれていた。
 十六歳とは思えないほど疲れきった顔をし、けだるそうに煙草を咥えている。
 終電は間近で、プラットフォームには他に人影も見当たらない。少女は、終電ではなく、他のものを待っていた。
 やがて、階段をゆっくりと降りて来る足音が響く。
 息を潜めて、少女は待った。
 階段から降りて来たのは、儚げでやせ細った、色白の青年だった。
 擦り切れたジーンズとワイシャツだけと云う簡素な服装だったが、青年の美しさを損なわず、むしろ際立たせてさえいた。
 とても綺麗に整った容姿をしていて、一目見ただけで、少女は理解した。
「あなたでしょう、幽霊って」
 ゆっくりと、静かに近寄る青年に、少女は震える声で話しかけた。
 青年は答えず、ただ微笑んでいる。
「噂を聞いたのよ。終電が近くなってから、駅員が見回りに来るまでの間に、楽園へ連れて行ってくれるキレイな幽霊がいるって」
「きみは、楽園に行きたいの?」
「だって…パパが打つんだもん。友だちにも裏切られたわ。もう人なんて嫌いよ」
「それでもきみは、どこかで人との関わりを望んでいる筈だ」
 優しく穏やかな声で、青年はそっと言った。
 少女の手をやわらかく包み込むように、握る。


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