楽園…39
「明日を楽園にできるかは、きみ次第だよ」
ひどく優しい声が、少女の中に沁みこんでゆく。青年は彼女の手から煙草を取り、躊躇せず咥えた。
目を丸くした少女の頬が、赤く色づく。
そこへ、最後の電車がプラットフォームへ滑り込んできた。
「行ってごらん。頑張った分だけ、明日も変わるから」
ちょっとだけ戸惑って、少女はやがて頷き電車へ駆け込んだ。
見送る青年の後方側から、足音が近付いてくる。
ドアが閉じ、終電は速度を徐々にあげて去ってゆく。足音は、背後で止まっていた。
一息だけ煙を吐いてから青年は振り返った。小鳥遊が、立っている。
「幽霊が出るらしいですよ、此処」
「それは、君のことなんだ。私がネットで流した噂だよ。……そうすればいつか、逢えると思っていた」
「ひどいな。おれを勝手に殺さないでくださいよ、」
スタンド灰皿の中へ煙草を捨て、控え目に笑う彼へと、小鳥遊は指先を伸ばす。だが触れる前に、手を引っこめた。
「教えてくれ。君は…生きているのか? 私が触れた途端に、消えたりしないか?」
「生きてますよ。どうしても、死ねませんでした。以前、小鳥遊さんが言ってくれたでしょう。ハルユキが必死で守ろうとしたものを傷付けちゃいけないと……ハルユキはおれを自由にする為に、賭けに出て事故死した。おれの所為で死んだとしても、おれは…生きるべきなのかなって。それにハルユキが、楽園は無いと言ったのも気になって…」
言葉がまだ途中だったにも関わらず、小鳥遊は彼を抱き締めた。
縋りつくように、きつく、必死に。
「梓くん…逢いたかった。無事で、良かった」
「二年ぶり、ですね。小鳥遊さん」
小鳥遊の背に腕を回さず、挨拶を交わすようにのんびりと言葉だけを返す。
すぐに小鳥遊は梓を解放し、確かめるように梓の頬へと触れる。
その手に指輪が嵌っていないことに、梓は逸早く気付いた。
「小鳥遊さん…結婚指輪は、どうしたんですか」
「妻とは、あのあと離婚したんだ。私は、自分がゲイだと告白したからね」
「え…」
「気持ち悪いから別れてくれと、喚かれたよ。修羅場っていうのかな、すごかったなぁ」
ハハ、と軽い笑い声を零し、大分月日が過ぎているからか、何でもないことのように言う。
「あれは…気の迷いだったんだ。黙っていれば、あなたは普通の人として暮らしていけた筈なのに、どうして……体裁も守れた筈じゃないですか」
「……普通の暮らしも体裁も、どうでも良くなるぐらい、君が…好きなんだ」
小鳥遊は一度目を閉じ、開いてから、真っ直ぐに梓を見る。
「あの日、妻と別れてもいないのに君と抱き合うなんてよくないと、考えていた。でもその…き、緊張しすぎて、言い出せなかった」
今でも鮮明に梓の裸体を思い出せる小鳥遊は、多少赤面する。
参った様子で頭を掻く姿に、梓の目は釘付けになった。
「おれは、小鳥遊さんを傷付けたんですよ。それでも、まだ…好きでいて、くれるんですか」
「守ってくれたんだろう、あの…土屋って人から。私は喧嘩も弱いし、争いごとにはむいていないからね。でも、悔しかったなぁ…梓くんを守りたかったのに、守られてばかりだった」
「小鳥遊さんを守ることで、おれは…心が死んでゆくことから守られていました。直積的じゃなく、間接的ですが…小鳥遊さんは、おれの心を守ってくれていた」
「……梓くん、」
感極まったように小鳥遊が名を呼んだ瞬間、二人に声が掛かった。
見回りの駅員だ。切符を払い戻し、駅から出された二人は、人気のない通りを歩き始める。
深夜の澄んだ空気が心地いい。
梓は横目で小鳥遊を見て、一歩進んでから立ち止まった。小鳥遊の前で、向き直る。
「小鳥遊さんは、これから、どうしたいんですか」
「どうしたいか、か。……私にはね、君を幸せにする確信が無い。でも梓くんに寄り添っていたい」
「それは恋人と云う意味、ですか?」
眼差しを注ぎ、確かめるように梓が問う。
思案気に黙り込んだ小鳥遊が、やがてゆっくりとかぶりを振った。
「気持ちが、私に向いてなくてもいいんだ。梓くんを自分のものにしようなんて、思わない。他に恋人が居たって、いい。ただ、私は……梓くんが求める楽園を、一緒に探したい。梓くんに、幸せになってもらいたいんだ」
切実な小鳥遊の想いに、梓は胸打たれた。
自分の幸せよりも、梓の幸せを願ってくれている。
そんな彼に、梓は以前よりもずっと強い気持ちを感じ、焦がれる。
そしてハルユキが言っていた意味が、今、やっと理解った。
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