楽園…40(終)
「ありがとうございます。でも、おれが求めていた楽園は見つからないんですよ」
「え?」
「最初から、何処にも無かったんだ。おれと、ハルユキが求めた楽園は」
哀愁をほんの少し漂わせ、梓は胸の内で、ハルユキを想う。
ハルユキがそんな約束を交わしてくれたのは、自分に生きる糧を与えようとしてくれたからだ。
ハルユキが居てくれたから、彼との約束が在ったから――今では、とても遠く感じるあの日々を、生きて来れた。
途方も無いぐらいに遠回りをして、ようやく気付くことが出来た。
今まで自分が求めていた楽園は、何処にも無いのだと。
「そ、そんな筈は無い。諦めたら駄目だ、梓くん」
まるで自分のことのように必死になって、真剣な表情で梓の肩を掴んでくる。
掴まれた部分が熱く感じたが、熱いのは小鳥遊の手ではなく、自分の身体なのだと梓は思案する。
脈が少し、速くなった気さえした。
小鳥遊に触れてみたくなって、目線を交わす。小鳥遊の表情は、梓を説得しようと必死なものだ。
その真剣さが無性に愛しく、心の奥が震えた。
「諦めじゃなくて、分かったんです。楽園に辿りつければ幸せになれる、と。もう心が傷付けられることも無いと、思っていた。でも、違うんだ。傷から目を逸らしてしまったら、見落とすものだって増えてゆく。幸せは、求めるものじゃない。近くに在るって、気付くことなんだ」
「……梓くんは、幸せに気付いたのかい?」
「はい」
「そうか、そうだったのか……よかった。本当に、よかった」
小さな頷きを幾度も繰り返し、安堵の呟きを零した。
やがて、緩慢な動きで片手を梓に差し出す。
「それじゃあ、此処でお別れだね。……逢えてよかった」
しんみりとした口調で、別れの握手を求める小鳥遊を、梓はじっと見つめる。
小鳥遊の手を握り返さず、首を僅かに傾けて、やわらかく微笑んでみせた。
「早とちりしていますよ、小鳥遊さん」
「え…?」
「今のおれにとって重要なのは、目の前にあるものを、貴方を…大切にすることなんです。そんな単純で当たり前の事に気付くのに、時間はひどく掛かったし、遠回りもしてしまいましたけどね」
「気付けたというのは…それだけで、すごいことだと思うよ。でも、どうして私を大切にすることが、重要なんだい?」
「率直に言うと、好きだからです。小鳥遊さんと、一緒に居られたら幸せだなぁって。おれの心が言っています」
一歩近付き、今度は梓のほうから小鳥遊を抱き締めた。
驚いている小鳥遊の頬へと唇を寄せ、微笑む。すると小鳥遊は、じわじわと顔を紅く染めてゆく。
「幸せの形が人それぞれ違うように、楽園も、人それぞれで変わってゆくものだと思いませんか? 場所だったり、明日だったり、人だったり……あるいは、自分の心の中だったり。宝物のような存在をそっと、心の中にしまったら…それはもう、楽園なんじゃないかな」
「だったら、ハルユキくんは…梓くんの楽園に居るね、きっと…居るよ」
「小鳥遊さんの楽園にも弟さんが、きっと」
色付いた頬に手を添え、梓は優しく言い聞かせるような口調で告げる。
小鳥遊の肩が微かに震えた。
小声で「うん…うん…」と、噛みしめるように繰り返している。
「……さて。おれも男なので、ハッキリ言いますね。小鳥遊さん、おれの恋人になってくれませんか?」
「よ、喜んで…っ」
大きく目を見開いたあと、喜色の声を上げる小鳥遊の唇をさっと奪う。
掠めるようなその口付けに、小鳥遊が擽ったそうに笑った。笑顔が、きらきらと輝いて見える。
一方通行ではなく、想いの通じ合った、甘く温かな抱擁。
幸福感が全身に広がって、ひどく心地よくて、心の底から安心できるような感覚。
梓はそれらに浸りながら、緩やかに瞼を閉じた。
何処かでハルユキが嬉しそうに、笑った気がした―――。
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