かけひき…3

 家に戻って整理をつづけ、やっと終えた頃には、陽も落ちていた。
 開け放した窓から、夜風とともに涼しげな虫の音色が入ってくる。
 両腕を大きく伸ばし、達成感に浸っていた冬希はそれに気づき、耳を澄ました。秋夜の演奏会だ。
 この時期、子どもの頃はよく叔父に手を引かれ、虫聴きに行っていたのを思い出す。
 江戸時代に俳句をたしなむ者たちの間で行なわれていたのだと、叔父が説明してくれた。風流、と叔父が口にした言葉の意味は、当時の自分には理解できなかったが。
 秋夜に聴く虫の声は安らぐ。と、微笑みながら言った叔父の声が不意に、鮮明に思い出せた。
 耳元で聞こえた気すらして、冬希は咄嗟に首を横に振る。
 作文用紙の内容が、またよみがえる。

 叔父を純粋に好いていたのは、あの日までだ。
 あの日―――中学にあがったばかりの頃、叔父にいきなり抱き締められてキスをされた。
 それ以上のことは無く、叔父はこともなげにすぐ離れたが、単純な冬希はそれ以来、彼を意識せずにいられなくなった。

 そのわずか半年後、叔父は結婚してしまった。
 悔しくて、悲しくて、たまらなかった。
 もしかしたら彼に愛されているのではないかと期待して、ひとり舞いあがっていた分、余計に。
 惨めな自分を隠そうと、なかば躍起になって、叔父に会うたびに罵り、蔑み、悪態もついたが、一度点いた火はなかなか消えなかった。
 どんなに口汚く罵っても、好きな気持ちは薄れず、かえって苦悩した。
 にがい、想い出だ。

「ちくしょう…なんで、あんな…」
 優しく、触れるだけだった淡い口付け。
 いまでも感触が、はっきりとよみがえり、ひとりぼやく。
 むしょうに煙草を吸いたい衝動に駆られ、冬希は気分転換もかねて外へ出ることにした。
 涼やかな夜風にさらされながら煙草を喫んでいれば、胸の奥でざわつくこの気持ちも、おさまるだろうとの考えだ。
 夜間用の眼鏡が入ったケースを片手に、虫の声が美しく響くおもてへと出てゆく。
 行き先は決まっている。昼間と同じ橋の上だ。
 一服する時はなんとなく、その場所に向かってしまう。
 虫聴きしながら歩いていた冬希は、橋の上に人影を見つけ、たもとで足を止めた。同時に、昼間の男を思い出す。
 ケースの中から眼鏡を取り出し、急いでかけたものの、外灯の淡い光に照らされている男が、昼間見たのと同一人物かは分からなかった。
 男は欄干に手を添え、うつむき、川に見入っている。

(飛び降り? まさか、な…)
 嫌な予感に唾を飲み、声をかけるべきか迷う。
 冬希は落ち込んでいる人間を放っておけない質だ。損をしているとよく周りから、揶揄されるほどに。
 眼差しをじっと注いでみるが、深くうつむいている男の表情は、読み取れない。
 少しばかり距離を縮め、様子をうかがうことにした。
 数分経つと、冬希はおもむろに煙草に火を点ける。
 これを吸い終えるまでに男が去ってくれればいいと願ったが、男は一向に動く気配を見せなかった。
 ふだんならフィルター手前で火を消すはずが、男に目を向けていた所為で気づかず、濃くなった煙に噎せてしまう。
 強い味に、舌が痺れた。
 フィルターを燃やすその熱さに思わず手を離すと、地面に落ちた煙草が火花を散らす。
 噎せながらも、落ちたそれを拾って携帯灰皿の中へ押し込む。
「…煩くして、すみません」
 男の視線を感じて謝ってみたが、返答は無い。
 逡巡したのちに、冬希は更に一歩近づき、再び口を開いた。
「具合でも悪いんですか」
「気にしないでくれ、川を眺めているだけだ」
 素っ気ない返答と共に、うっとうしげに手を払う気配がする。
 居心地の悪さをおぼえて、冬希は一瞬たじろいだものの諦めず、半ば反抗的に眉根を寄せる。
「昼間からいましたよね。そんなに長い時間いられたら、嫌でも気になりますよ」
 冬希のその声は不機嫌なものだが、心配している気持ちが含まれている。
 それを感じとった男は顔を上げ、口元に苦笑を浮かべた。
「そんなに、怪しかったかな?」
「ええ、とても」
 闇を挟んだ向こう側から、ストレートな言葉が返ってくる。

(まるで誰かさんのようだ)
 男は懐かしげに目を細めて、まだ顔も見えぬ相手へ好奇心を抱く。そして欄干から手を離し、ゆっくり振り返った。
「素直だね。私はただ、川を見ながら色々考えていただけで…飛び降りる気は無いよ」
 相手を安心させようと、穏やかな物言いで答えながら歩み寄ってゆく。



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