かけひき…4

 距離が縮まれば、闇に紛れていた相手の顔が段々と見えてくる。冬希のほうが先に気づき、息を飲んだ。
「きみ…もしかして冬希くんか?」
「ひ、人違いです。それじゃっ」
 素早くうつむいた冬希は、身を翻し、駆け出した。
 その背に、声は掛からない。なにも言われないようにと強く願いながら、冬希は全速力で疾走した。
 冬希の姿が闇の中へ消えてしまった後も、男はその足音が遠ざかるのを待った。
 やがて完全に聞こえなくなると、堪えきれず、ククっと低い声で笑い出す。
「まさか、ここで会えるとはな。あの逃げっぷり…相変わらず、かわいいやつだ」
 声量は抑えて、一頻り笑ったあとで男は瞼を閉じる。
 川のせせらぎと、鳴く虫の声に耳をそばだて、ゆったりと聴き入った。



 息を切らして家に戻った冬希は、風呂あがりの父親を捕まえ、橋の上で叔父を見かけたと伝えた。
「あの橋か。おまえらのお気に入りの場所だろう」
「おまえ…ら?」
「覚えていないのか。祐一が、あの橋を好きな場所だと言ったら、ユウちゃんが好きならぼくも好きって言ったんだぞ、おまえ」
「なに、それ…」
「好きな相手に影響されるってことだろう、単純だな冬希は」
 実の親に単純だと言われて、力なく肩を落とす。父親は笑いながらその肩を叩き、居間へ向かった。
 短い溜め息を人知れず吐いてから、冬希は自室へ戻っていった。

「ユウちゃん、か」
 名前を口にしただけで鼓動が速まる自分に、重症だな、と苦笑する。
 寝る準備を終えてから、逃げるようにベッドの中へ潜り込んだ。
 予想していた通り、その日は、結婚式の日の夢を見た。
 唇を噛んでうつむくことしか出来なかった、情けない自分の姿が、夢で鮮明によみがえる。
 涙が肌を伝う感触で、冬希は目を覚ました。
 昔は何度も繰り返し見ていたが、ここ数年になってからはまったく見ず、もう気持ちは薄らいだのだと考えていた。
 だが祐一を前にして、まったく変わっていなかった自分の気持ちを思い知らされた。
「おれ、まだ好きなんだ…」
 涙を拭き、天井に向けてぽつりと呟く。
 恋愛の対象として、まだ祐一を諦め切れていない事実に困惑する。
 いつまでも想いつづけている自分が、どうしようもない人間に思えてしまう。
 自己嫌悪を誤魔化す為に、祐一に対して不満を抱く。
「ちくしょう…なんで簡単に、離婚してんだよ」
 カーテンから差し込む陽射しが、瞼に触れる。
 まるで拒むように、冬希はぎゅっと目を瞑った。



 堤防沿いの歩道をわざわざ通り、冬希は祐一を遠くから眺めるだけの日々を送っていた。
 冬希の知る限り、祐一は毎日、だいたい昼から夕方過ぎまで橋の上で過ごす。
 うつむいて川を眺めていたり、欄干に凭れながら読書をしている時もあった。
 堤防の上へ腰を下ろし、冬希は橋のほうへと目を凝らす。
 祐一の姿がよく見えるが、繁茂した木々が周囲を覆っている為、向こうからは見えないだろうと判断した上で、その場所を選んだ。

 彼への気持ちが消えていないと分かった以上、関わりたくないと強く思う。
 昔のように、勝手に舞いあがった末に、どん底へ叩き落されるのは嫌だ。
 しかしそれでも、祐一のことが気になって仕方がなく、こうして遠くから見てしまうのだ。

(おれはもうとっくに…結婚式の日に、ふられてるのに)
 痛いぐらい、分かっている。
 それが事実で、だけど、まだ想いが消えていないのも事実だ。
 惹かれるように、無意識に祐一のほうへ目がいってしまう。

「みっともないな…」
 堤外に向けて投げ出した足を、気だるげに揺らす。
 煙草のフィルターを悔しげに噛んだ瞬間、
「なにが、みっともないの?」
 後ろから女性の声が響いた。
 振り向くと、こちらを見あげている、きれいな顔が視界に入る。
「マヤ、戻ってたのか」
「今朝ね。だから真っ先に、冬希に会いにきたよ」
 彼女は柔らかく微笑んでから、飲料水の入った瓶を二つ、堤防の上へ置いた。
 自然な所作で差し伸べた冬希の手を掴み、軽やかな動きであがってくる。
「隣、いい?」
 訊いておきながらも答えは待たず、隣に座るのが実に彼女らしい。
 中学時代からの付き合いで、その性格を良く知っている冬希は、当然のように隣を許す。



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