―――私は、貴方のモノですから。
返り血に塗れたあいつが、目を伏せて。
うっすらと口元を緩ませながら囁いたあの言葉は、今も、胸に残っている。
何を想ってあの人を殺めたのか、今でもあいつの考えは分からないけれど―――。
幼い頃に、あいつと交わした約束は、必ず叶えてみせる。
どんなに、無様で滑稽だろうと、周りから蔑まれようと、罵られようと。
敬愛していた兄に見放されようとも……叶えるんだ。
それだけが、俺の生きる理由だから―――。
『 名前 』
実に久し振りに本家へ訪れた
逸深は、真っ先に六堂嶋の当主、
鐐の自室へと向かった。
だが肝心の相手は何処にも居ない。
廊下ですれ違った六堂嶋の人間に尋ねても、誰しも知らないと零すだけで、さして関心すら抱いていない様子だ。
六堂嶋の人間の心は、当主から大分離れつつある。
「貴方の望み通りだ」
冷たく笑って呟き、格子窓の向こう側に鐐の背中を捉えた。
庭園をひとりで眺めている姿は、どことなく淋しげで、六堂嶋の当主と云うよりも、ただの小さな子供にしか見えない。
しばらくその背中を眺めていたが、鐐が縁側の柱に力なく寄り掛かったのを見て、逸深は急ぎ足で彼の元へ向かった。
柱に凭れて目を閉じると、返り血に塗れた男の姿が瞼の裏に浮かぶ。
あれ以来、あの男が笑った顔は見た事が無い。
昔は、と思い起こせば、子供の頃の記憶は直ぐに甦る。それも、ひどく鮮明に。
―――ぼくが、叶えてやるよ。ぼくが当主になって、おまえを自由にしてやる。約束だ、ナキリ。
そう約束した日の、空の色さえも。
驚いてから、嬉しそうに笑った男の顔も。
何年経っても、すべて鮮やかに思い出せる。
男の笑い顔を思い出して少し笑みが零れたが、近付く足音に気付いて鐐は口元を引き締め、目を開けた。
「支えが必要な程、傷が痛みますか?」
「ハヤミ、か。オマエが来るのは珍しいな。傷は痛むに決まってる、そんな下らない事を訊く為だけに俺の元に来たのか? 暇人め」
鋭く、人を寄せ付けない冷ややかな、鐐の態度。
それが演技であることを、逸深はとっくの昔に知っていた。
傍若無人な振る舞いも、男なら誰とでも寝るふしだらな言動も、すべてはただ1人の者の為の演技であることを。
「当主様、こんなところに居ては身体に障りますよ。部屋に戻りましょう。俺は傷の具合を診に来たんです、大切な当主様のお身体ですから、とても心配で」
「心配? …嘘を吐け、」
鼻で笑いながら軽くあしらわれたが、逸深は微笑しながら隣に座った。
紺の着物に身を包んでいる鐐の腕には、真新しい包帯が目立つ。
先日、
黒鐵が裏切りを起こした際、硝子戸に叩きつけられた鐐の手は、硝子が刺さって数針縫うほどの痛々しい傷を負っていた。
「それにしても、当主様にこのような傷を負わせるなど、黒鐡は本当に六堂嶋家の恥ですね」
「べらべらと心にもない事を…おまえも黒鐵派な癖に」
眉間に皺を刻み、睨みつけて来る。
それでも、整った顔立ちは美しさを損なわず、醜さなど微塵も感じさせない。
「派閥と云えば、先日の件で黒鐵派が一気に増えたそうですね。当主様が見苦しく取り乱した所為で、愛想を尽かして出て行った者が多いとか。どうするんです、離反を止められるんですか」
鐐の表情を見逃すまいと見つめながら問うも、彼は顔色一つ変えなかった。
無言で、眼前の和やかな庭を眺め、時折ゆっくりと瞬きする仕種に儚さすら感じる。
「……黒鐵か。今朝来たな、アホ面下げて。殺しの仕事をやめると云って来た。
相馬鈴が、危険な事はしないで欲しいと云ったからって、そんな馬鹿げた理由で」
笑えるだろう、と言葉を続かせて、鐐は口角をほんの少しだけ上げる。
視線は相変わらず、庭に向いたままだ。
話にしか聞いていなかったが、この庭で黒鐵は派手に暴れたらしいなと、逸深は一瞬だけ庭を見遣った。
「承認なさったんですか、」
「呆れ果てて、許可してやった。あまりにも馬鹿馬鹿しいからな。六堂嶋の黒鐵ともあろう者が、腑抜けになりさがって…」
わざと刺々しい物言いで、憎まれ口を叩く鐐を、逸深はただじっと見つめている。
彼の、真の目的に気付いた今では、彼に対して憐憫の情を抱いていた。
とは云っても、見下すものに近い情だが。
「お優しいですね、当主様。貴方に無礼を働いた人間に対して、とても寛容だ。尊敬しますよ」
物言いは丁寧だが、逸深の態度は小馬鹿にしているものに近い。
それを感じ取ったのか、鐐の瞳が、逸深へ向けられた。
逸深の加虐心が、煽られる。
web拍手
宜しければ押してやってください。感想頂けると励みになります。
[次]