『 陶酔 』
中学校からの帰り道、単語帳を開いて溜め息を吐く。
受験シーズンが始まり、
笹川優希はピリピリしていた。
いや、機嫌が悪い原因はもう一つ有る。
安アパートの階段を上り、二階の外廊下を三歩進んだ所で、足を止めた。
ある一室の、古びた玄関ドアが、半開きになっている。
単語帳を鞄の中にしまい、出来るだけ手が空いた状態にしてから、深呼吸を一つ。
玄関を覗くと、その先の床の上には、砂利や靴跡がこびり付いていた。
(あいつらが来ているのか? 親父はどうしたんだ?)
父親の靴を目で探しつつ、靴を脱ごうと屈みかけた優希は前方に意識を向けていなかった。
視界の隅に、高そうな革靴が映った時には、既に遅く。
「う、痛、ッ……!?」
力強い手で、優希の髪が鷲掴みにされる。
痛みとともに嫌悪感が身体を包む。
「悪いなぁ、坊や。今日は坊やに用が有るんだわ」
柄シャツを着込んでいる男は、ニヤニヤと厭な笑みを浮かべながら、優希を見下ろしている。
睨みつけても、男は平然とし、まるでゴミでも見るような目つきで優希を見ていた。
それでも優希は、怯まない。
恐怖よりも、嫌悪感の方が遥かに強いからだ。
(ヤクザは大嫌いだ。偉そうで、人を苦しめて、直ぐに暴力ばかり奮う)
優希が男を睨み続けていると、部屋の奥からもう一人の男が顔を出した。
「駄目だな、ここには居ねぇ。息子置いて逃げやがったな、あの野郎」
あの野郎、と聞いて優希の脳裏に思い浮かぶのは、自分の父親。
優希が中学1年生の頃、父親が会社から解雇され、それ以来、父親はまともな職につかなくなった。
賭け事に明け暮れる毎日で、優希の知らない間に、借金を溜めていた。
紹介された賃金業者がヤミ金融だったのにも関わらず、上借りを繰り返した。
五日前から借金の取り立てに来る者が、以前と違って、強面の男達になったのを不思議に思い、事実を昨夜、父から聞きだした時には、何もかもが遅かった。
優希の知らない内に借金は倍に膨れ上がり、巨額になっていたのだ。
(逃げた? 俺を置いて?)
ショックで瞠目し、そんなことは無いと頭の中でどう否定しても、ここに父親が居ないのは事実だ。
(俺――捨てられ、た?)
胸が早鐘を打つ。
目の前が真っ暗になったが、男達の声で我に返れた。
「そいつは大事な道具だ、傷付けるなよ。オヤジに怒られっちまう」
「あー、うるせぇなぁ。分かった分かった。……おっと、噂をすりゃオヤジからだ」
髪を離した男が携帯を取り出している間、優希は大人しく待ってはいなかった。
急いで飛び退き、玄関から出て全力疾走でアパートを離れる。
男達の怒鳴り声が聞こえたが、優希は振り向かずに走り去った。
(大丈夫、大丈夫だ。まだ俺の『道』からは外れていない。捕まらなければ、大丈夫だ)
学ランの前を開き、汗を掻いて必死で走る。
『後悔しない道を選んで、自分で決めた道を進むんだぞ』
子供の頃から何度も聞かされた、父親の科白が、ぐるぐると頭の中を回っていた。
とにかく大人を捜そうと、人けの有る方向へ急ぐ。
中学生なら、まだ大人が守ってくれる、と。半ば甘い考えを抱いて。
出来れば警官が良かったが、交番は反対方向だ。
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