『 昔歳 』

 まだ陽も出ていない朝明け前に、猛は一人で暮らしているマンションへと戻った。
 気怠げに玄関で靴を脱ぎ捨てるが、近くに置かれて有った小さな靴を目にすると
 弟の凪が昨日から泊まりに来ている事を実感し、自然と口元を緩める。

 自分の知らない間に、両親は海外旅行に行く予定を立てたものの
 まだ小学生の癖に気遣いが出来ている凪は、行く事を断ったらしい。
 凪を溺愛している母親は、父親と凪に説得され、渋々夫婦水入らずの海外旅行へと出掛けて行った。

 ――――そのまま事故か何かに遭って、一生戻って来なければ良いんだけど。
 凪と共に両親を空港で見送った際、胸に抱いていた願望を、再び抱く。
 幼い弟に執着している猛からして見れば、自分と弟以外の人間は、どうでも良い存在だ。
 猛は両親が亡くなったとしても、弟と二人きりになれる事を喜ぶような歪んだ気質を持っていた。

 まだ眠っている弟の隣で仮眠を取ろうと考えながら、猛は寝室へ足を進め、音も立てずに扉を開けて中へ入る。
 扉を後ろ手に閉めるまでの間、視線はベッドの上で眠りに就いている存在だけに注がれていた。
 音を立てぬよう注意を払いつつ足を進めた瞬間、携帯の着信音が唐突に鳴り出す。
 携帯の着信音を消しておくべきだったと考え、忌々しげに舌打ちを零した猛は直ぐ様、鳴り響いている携帯をジーンズの隠しから取り出した。
 自分と弟だけの空間を邪魔された事に対して苛立ちを感じている所為で、端整な顔は少々険しいものになっている。
 画面を見ずに着信の音量を下げながら踵を返し、一度ベッドの上の少年を、肩越しに見遣った。
 起きる様子も無く、小さなその存在は安らかな寝息を立てたままで、目を覚ます気配は伺えない。
 騒がしい着信音で少年の眠りを妨げなかった事に安堵し、猛は入って来た時と同じように、丁寧な仕種で静かにドアを開けて寝室を後にした。



「猛、もっと早く出なさいよ」
「…母さんか、」
 携帯電話を耳に当てがいながら、猛は広いリビングのソファに腰掛け、長い足を組んだ。
 母親の刺々しい物言いとは対照的に、猛の声は多少明るめのものになっている。
 だが表情は決して、愉しげな色を浮かべる事は無い。
「何時だと思っているんだよ、朝の四時だよ?…ああ、そっちは夜なんだっけ、」
 隣室で眠っている凪を起こすまいと配慮している為、猛は若干、抑え目の声で言葉を放つ。
「猛…あんたはどうせ、朝でも夜でも電話に出れるんでしょ?なら、いいじゃない」
 刺々しく、少し毒の有る口調で言葉を返されるが、彼女に嫌われている事など猛は随分前から知っている。
 今更気になる事でも無い為、平然と口元を緩めたものの雰囲気は柔らかく無く、黒々とした気配が伺えた。
「あのねぇ、母さん。電話に出れるんじゃなくて、出なきゃいけないんだよ。分かるだろう?吾妻さん…俺の所の兄貴ね。怒らせると、すげぇ恐いんだって」
 笑い話のように軽い口ぶりで言葉を放つと、母親は気を悪くしたように、受話器の向こう側で迷惑げな溜め息を吐いた。
「別に何をしようと、あんたの自由だけれどね。そう云う話を凪の前ではしないで。ヤクザなんて本当に最低で、死んだ方が良いような下らない人間の集まりでしょう。それに凪にとって、あんたは害の有る人間なんだから…あの子には変な事、吹き込まないで頂戴」
 刺々しい声音で悪態を吐かれても、猛は不快感を得る事も無く、傷付く事すら無い。
 どうでも良い人間の云う事など心には全く響かず、痛くも痒くも無かった。

 幼少時の頃から母親は自分に冷たかったが、害の有る人間だと口にし始めたのはヤクザになってからだ。
 猛は今では、傘下に八十もの団体を抱えている桜羅会の舎弟頭補佐、吾妻一の腹心とも呼ばれている。
 中学時代、ほんの気まぐれで暴走族の頭をやっていた頃、狂犬とも呼べる暴れ様を偶然目にした吾妻に酷く気に入られ
 それ以来、事務所に何度か出入りし、十七になった頃には吾妻が組の盃を半ば強引にくれた。
 強く望んでヤクザになった訳でも無いが、金の入りが良い所と、
 自分のような狂犬にとって生き易い世界は、今でも気に入っている。

「凪は…まだ寝ているの?昨日はちゃんとご飯、食べさせたでしょうね?コンビニのお弁当とか食べさせるのは止めて頂戴。あの子は、あんたと違うんだから。それから服も毎日替えさせて、ちゃんと清潔にさせて。それから……」
 通話相手は猛を気遣う素振りも無く、早口で喋り続ける。
 延々と続くかのようにも感じた猛は相槌を返す気も失せ、黙ったまま視線を寝室の扉へと注いでいた。

 通話を終わらせて早く、弟のあの華奢な身体を抱き締めて眠りたい。

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