昔歳…2

 あの存在に触れる事だけが唯一の安らぎとなっている猛は、凪の事ばかり考え続ける。
「ちょっと、聞いてるの?」
 猛の返答が全く聞こえなくなった事にようやく気付いた相手は、不満げな声を上げた。
 適当に相槌を返せば彼女は直ぐに、一方的な会話を続ける。
 凪に決して風邪を引かせないように、絶対に怪我をさせないようにと、しつこく何度も繰り返した後、母親は一度溜め息を零した。
「凪には絶対、おかしな事を教えないで。それと、背中のアレも見せないで。凪は何故かあんたに、ひどく懐いているけれど……戻ったら、あんたにはもう近付かせないようにするから。いいわね?」
「はいはい、分かったよ。…それじゃあ、」
 笑いながら軽く言葉を返し、勝手に通話を終わらせたが、数秒経っても母親から再び電話が掛かって来る気配は無い。
 喋るだけ喋って気が済んだのだろうと考え、猛は気怠げに前髪を掻き上げて軽く息を吐く。

「朝っぱらから、騒がしい女だ…」
 静かな室内で独り呟き、携帯をマナーモードにすると、ソファの背凭れに深く寄りかかる。
 明かりの点いていないリビングで薄暗い天井を見上げながら、母親に云われた言葉を脳裏に浮かばせた。

 母親は旅行から戻った後、凪を自分と会わせないようにすると言っていた。
 けれどその言葉を思い出しても、猛は焦燥感を全く感じる事無く、口元を緩める
 愛する弟と引き離される事になったとしても、凪は隠れて自分に会いに来るだろうと云う、確信が有った。

 凪は昔から猛だけを頼り、とても良く懐いている。
 そうなるように育てたのは他でも無く、猛自身だ。
 凪が頻繁に自分の所へ訪れる未来を想像しながら、猛はゆっくりと腰を上げ、寝室に向けて足を進める。
 扉を静かに開けて物音も立てずに室内へ足を運ぶが、ベッド上の存在は、部屋を出た時と変わらずに深く寝入っていた。
 窓紗の隙間から差し込んでいる陽が、凪の目元を照らしている。
 彼が眩しそうに身を捩るのを目にすると、猛は柔らかな笑みを自然と口元に浮かべ、なるべく音を立てぬよう注意しながら窓際へと向かった。
 光を遮るように窓紗の前で暫し佇み、猛は少し眩しげに眼を細め、差し込む光を見上げる。

 黄金色に染め上げた猛の髪は陽によって一層輝きを放ち、獅子を思わせるようなその姿には
 組員から半ば揶揄混じりに言われている、狂犬と云う言葉はあまりにも似合わない。
 品格すら微かに漂わせているが、猛は徐々に表情を不機嫌なものに変えてゆく。
 帰宅した際、陽はまだ出ていなかったと云うのに、窓紗の隙間から覗いた空は既に明るくなっている。
 随分長い間、あの女の下らない話を聞いていたのかと考えると、凪と過ごせる時間を減らされた事に苛立ちが増した。
 心中で舌打ちを零しながら、窓紗を閉める為に手を伸ばした瞬間――――
「ぅ…ん…っ」
 背後で、寝言とは呼べない甘く小さな声色が響いた。
 一瞬、自分の聞き間違いかと思いながら肩越しに振り返ると、眠っていた凪はいつの間にか身体を起こし、此方に背を向けてベッド上で座り込んでいた。
 心なしか、その肩が震えているように見える。

「……凪?」
 不思議に思いつつ声を掛けた瞬間、凪の肩が大きく跳ねた。
 恐る恐ると云った様子で、猛の方へ振り向く。
「お兄、ちゃん…」
 柔らかそうな唇から躊躇いがちに小さい声が零れ、鳶色の大きな瞳が不安げに此方を見上げている。
 色はどちらかと云うとあまり目立たない為、良く見なければ瞳の色が鳶色だとは気付けない。
 瞳の色が普通の人と違うのは、メラニン色素の量が少ないからだと、猛は以前医者から聞いた事が有った。
「恐い夢でも見たのか、」
 安心させようと優しく笑い掛けながら近付くが、凪は何も答えず、弱々しく首を振る。
 それを不思議に思いつつも、猛は普段しているように彼の小さな身体へと腕を回し、抱き寄せようとした。
 その途端、凪は嫌がるように身を捩る。
「どうしたんだ?好きだろう、お兄ちゃんに抱き締められるの、」
「ぼ、ぼく…お…おトイレ…」
 震えた声音を出されると、猛は訝りながらも半ば強引な形で、凪の身体を後ろから抱き締めてやる。
「ゃ…お、お兄ちゃ……は、離して、」
 普段と違って凪は嫌がるようにかぶりを振り、逃げようと動く。
 腕の中で必死になって身を捩る相手を見下ろし、猛は眉を軽く顰めた。
「凪、どうしたんだよ。お兄ちゃん、凪に嫌われるような事…したか?」
「ち…違くて…あの、ぼく、だから…おトイレ、行きたくて…」
 弱々しく答えながら、何処と無く落ち着かない様子で凪は腰を動かした。
 明らかに挙動不審に思える姿と、少し前屈みになっている様が、猛にはいささか疑問だった。

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