凶犬…02
「お前…あの反応、ホンマにヤッてしもうたんか。マズイやろ、」
閉ざされた扉へと視線を向けたまま、声を潜めて咎める。
けれど猛の言葉は返って来ず、その事を少々訝りながらも、扉の向こうの凪は何を思っているのかと思案した。
その矢先に、それまで何も言葉を返さなかった猛が、再び低い笑い声を立てる。
何が可笑しいのかと顔を向けると、心底幸せそうに笑っている猛が、目に映った。
「見ました? 吾妻さん。凪のあの反応…すっげぇ、可愛い。たまらないっすよね」
まるで幼い子供が心から喜んでいるような邪気の無いその笑顔を、吾妻は驚倒の面持ちで眺める。
この男が、こんな風に笑った所など、見た事が無い。
猛は良く笑う方だが、それは全て厭な笑みで双眸は暗く、この男は人を不快にさせるような
そんな笑い方しか出来無いのだと、今までずっと思っていた。
吾妻は掛ける言葉を見失い、ただ呆然と猛の笑顔を眺め続ける。
暫くすると猛は笑みを消してソファから立ち上がり、片手をジーンズの隠しへ突っ込んで吾妻を見下ろした。
「明日、多賀を仕留めに行きますよ」
「……お前自ら行かんでも、ええやろ。」
猛の快活な口ぶりとは不釣合いな黒い言葉に、吾妻は苦い表情を浮かべる。
「今日は気分がいい。こんなに晴れやかなのは初めてなんすよ。やるなら、早い方がいい。…この気分の消えない内なら確実に仕留めて見せますよ」
――――――いつも必ず仕留める癖に、何言うとるんや。
呆れた眼差しで相手を見上げると、猛は普段通りの厭な笑みを見せ、自室に続く扉へと視線を向けた。
「用は、それだけっすよね。それじゃ、明日までゆっくりと凪と過ごしますんで、早く帰って下さい」
あまりにも身勝手な言葉に一瞬眉を顰めた吾妻だったが、猛は吾妻にはもう関心など無く、自室に続く扉へと足を進めた。
「……猛、人殺しの手じゃ、綺麗な存在は抱けへんぞ」
静かに声を掛けた吾妻の後ろで、扉を開け掛けた猛の動きが、一瞬止まる。
それを察した吾妻は振り返る事なく、低い声音で言葉を続かせた。
「抱いたら、それも血に染まって汚くなるだけや。互いが、不幸せになるだけやぞ」
言い終えた矢先に、背後で扉の閉まる音が響く。
肩越しに振り返るものの猛の姿は無く、閉ざされた扉を眺めながら吾妻は深い溜め息を零した。
……………今は凪が居るが、猛は……あいつはきっと、死ぬ時は独りや。
ソファからゆっくりと腰を上げ、玄関に向けて足を進めながら、
猛のような人間は報われる事など無いのだと吾妻は考える。
「……お前はあんな顔して、笑うんやな。」
参ったように肩を竦め、懐から煙草の箱を取り出すと吾妻は口元を微かに緩め、笑う。
だが、中に入っている煙草が一本しか無い事に気付き、舌打ちを零す。
玄関先で靴を履き、一度振り返ってから、猛の笑顔をもう一度思い出した。
――――――――あいつは、絶対に幸せにはなれん。
色々な人間を見て来たからこそ、吾妻は自分の考えに確信を持てる。
猛は、決して幸せにはなれない。
そう思うからこそ、今は………今だけは、少しでも幸せな瞬間を過ごさせてやりたいとすら、思う。
玄関の扉を開け、刺すような冷たい風に眉を顰め、煙草を口に咥えた。
もうすっかり、季節は冬だ。
けれど、あの哀れな犬の居る場所は、温もりが有るのだろう。
そう考えると、まるで自分の事のように口元が緩み、
笑みを誤魔化すように、吾妻は最後の煙草に火を点けた。
終。
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