『 恋咲き 』
桜羅会若頭補佐筆頭の樋口芳樹は停められた車から降りた矢先、苛立ったように舌打ちを零した。
走り寄って来た屈強そうな部下達は皆一様に頭を下げ、威勢良く挨拶を口にする。
だが樋口はサングラスの奥の双眸を微かに細め、部下達をねめつけた。
桜羅会若頭補佐の猛が、手打ち金三億を持ち逃げした一件から、もう二ヶ月は経とうとしている。
猛の行方を突き止める為に、猛の実家に部下達を張らせては居るが、一向に進展が無い。
桜羅の津川会長に遅すぎると咎められ、止む終えず今回は自ら出向いたのだが
ただ張り込んでいるだけの部下達の姿を目の当たりにして、樋口は余計に苛立った。
「てめぇら、何をモタモタしてやがる。オヤジに恥掻かせてぇのか、」
咥えていた煙草を指で挟んで口元から遠ざけ、傍らの車体へ押し付けて火を消しながら、樋口は冷ややかな声音を放つ。
樋口の苛立ちを前にした部下達は怯え、それぞれが謝罪を口にする中で青褪めて微かに震えている者も居る。
「ああ、親分…。親分直々に来るって事は本家の津川さん、相当ご立腹って事ですかね?」
だが唐突に上がった緊張感の欠片も無い声が、張り詰めた雰囲気を壊した。
樋口が視線を向けた先には、古いアパートの前に横付けされた車の後部座席から、ゆっくりと降りて来る若頭補佐阿久津の姿が映る。
呑気に欠伸を零す辺り、車中で仮眠を取って居たのだろう。
「阿久津、どうなってやがる。」
それを察した樋口は更に気を悪くし、眉を顰めて阿久津の傍へ近付きながら、咎めるように厳しい口調で問う。
すると阿久津は若干慌て、口元を引き締め直して背筋を伸ばし真面目な表情を作った。
「それがですね…猛の親父さんは家から一歩も出て来ませんし、ちょっと脅したぐらいじゃ口割らないみたいっす。親分の睨んだ通り、猛と連絡を取り合ってるのは、間違い無いと思いますけどね」
「……ドア蹴り破って、引きずり出せ」
アパートの二階へ視線を向け、感情を含んでいない冷淡な声音を放つと、阿久津は焦りながらかぶりを振る。
「ンな事したら、サツに連れてかれちまいますよ。一昨日サツ呼ばれて、釘刺されたばっか…」
阿久津が最後まで言い終わらない内に、樋口は唐突に、傍らに停められていた車のドアを思い切り蹴り付けた。
派手な音が周囲に響くと、阿久津は言葉を続かせる事も出来ず、口を閉ざす。
「阿久津…甘い事ぬかしてんじゃねぇよ。てめぇは何処のモンだ…言ってみろ、」
低く鋭い声が響いて、樋口から漂う威圧的な雰囲気に息が詰まりそうになり、阿久津はゴクリと唾を呑み込んだ。
緊張から口の中が渇き、真っ向から樋口を見る事が出来ずに、若干視線を落とす。
間近で樋口の恐ろしさを何度も目にしている組員達は、心底恐怖を抱いて怯え、樋口を畏怖する。
徹底的に恐怖心を植えつけられて縛られ、自分達組員はある意味、洗脳されているのだと阿久津は常々思う。
立派に洗脳されているから、自分のように、樋口を崇拝すると同時に畏怖もしているのだ。
「お…桜羅会、樋口組の者です」
組員達が固唾を呑んで見守る中で、少し遅れて、阿久津の震えた声が上がる。
「そうだよなぁ、阿久津。俺はてめぇに甘い事を教えて来たか?あぁ?」
「い、いえ……すんません、」
阿久津が勢い良く頭を下げるが、樋口の視線は鋭く、突き刺さるように注がれたままだ。
このまま永遠に睨まれ続けるのかと、冷や汗を流しながら阿久津が考えた瞬間、樋口は何かに気付いたようにゆっくりと目線を移した。
人気の無い道を、躊躇いがちな足取りで進んで来る者の姿が、眼に映る。
俯いている所為で顔は見えないが、身体付きからして恐らく男だろう。
けれどあまりにも華奢で、男だと断言するにはいささか躊躇われる奴だと、樋口は思う。
眉を顰め、睨むように鋭い眼差しを樋口が向けると、痛すぎるその視線に気付いた青年は更に深く俯き
少し足取りを速くして、逃げるように樋口と組員の間を通り抜けて行く。
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