恋咲き…03
郵便受の鍵を開け、扉を開けて中の物を取り出しながら、凪は深い溜め息を零す。
未だに慣れないバイトを終えて疲れて帰って来たら、家の前に会いたくも無い人達が沢山居る。
二ヶ月前からもうずっとそんな状況で気が重く、凪は心身ともに疲れ始めていた。
だが、いつもなら猛の居所を吐けと脅して来る筈の男達は、今日はどうしてか何も言って来なかった。
………あの人が居たから、かな。
取り出した郵便物を確認しながら、凪は脳裏に、先程眼にした男の姿を浮かべる。
男達の近くを通る前に、遠目からほんの少しの間様子を窺っていたのだが
見た事の無い人が居るなと、凪は樋口を見て少し不思議に思った。
何処と無く周囲の人達とは雰囲気や迫力が違っていて、遠目からでも威圧感が感じられた。
ヤクザ達が頭を下げる辺り、きっと地位が上の人なのかも知れないと考えた瞬間
男は高級そうな車を蹴り付けたものだから、凪は暴力的なその姿に怯え、正直関わりたくは無いと思ったのだ。
――――ヤクザは直ぐ人に暴力を奮う、恐い生き物だから気を付けるんだよ。
――――俺以外のヤクザには、もう近付いちゃ駄目だよ。
そう何度も教えてくれた兄の言葉が、まさにその通りだった事を、凪はこの二ヶ月間嫌と云う程思い知らされた。
夜中でも男達は構わずに玄関ドアを蹴って怒声を放ち、寝かせてはくれず、外出時も帰宅時もドスの利いた声で、猛の居場所を教えろと何度も脅された。
まだ殴られた事は一度も無いが、つい先程、思い切り車を蹴った暴力的な男の姿を眼にしたばかりの凪は
やはりヤクザは恐い生き物なのだと、優しいのは兄の猛だけなのだと思う。
「……兄さん、何処行っちゃったんだろう…」
確認した郵便物の中には今日も猛からの手紙は無く、凪は寂しげに呟いた。
携帯も繋がらず、この二ヶ月、猛との繋がりは絶たれている。
彼が無事なのかどうかも分からない状況で、もし猛の身に何か有ったらと思うと、泣きそうにすらなる。
だが涙を零す事はせず、肩に斜めに掛けていたショルダーバッグの中へ、郵便物を押し込んだ。
凪に似合いそうだから買ったんだと口にしながら、バッグをプレゼントしてくれた猛を思い出し、悲しげに目を伏せる。
猛の事を想いつつ、俯いたまま階段の一段目に足を乗せた瞬間、此方へ近付いて来る靴音が耳に入った。
たどたどしく顔を上げると、真っ直ぐに近付いて来る男の姿が眼に映り、凪は直ぐさま顔を俯かせる。
車を蹴った暴力的な、あの威圧感の有る人だと考えて、凪は逃げるように階段を上ろうとした。
「坊や…何処へ行くつもりだ、」
低く静かな声音が耳に入り、凪は一瞬ビクリと肩を震わせる。
階段を駆け上がって家に入ってしまえば安全だと、そう考えるが、足は震えて動かない。
樋口が近くまで来ると、凪は少し俯いたまま、視線だけをそちらへ向けた。
高そうな革靴から徐々に上へと目線を上げるが、男の全身から漂う圧倒的な迫力に怯み、顔も見れないまま凪は直ぐに視線を落としてしまう。
華奢なその身体が微かに震え出したのを目にして、樋口は小馬鹿にするように、鼻で嗤った。
男の癖に度胸が無さ過ぎる奴だと、樋口は相手を見下ろしながら、臆病な凪を心中で侮蔑する。
「…用件は一つだ。猛の居場所を素直に吐けば、痛い目は見なくて済むぞ」
掛けられた言葉に凪は更に深く俯き、震える自分の足を見つめる。
威圧的な樋口を前にして、普通の人より内気な面が強い凪は余計に怯えていた。
助けを求めるように胸中で何度も猛を呼ぶが、行方を眩ましている彼が、駆けつける筈も無かった。
「聞いているのか?素直に猛の居場所を吐けと言っているんだ、」
直ぐに返答を口にしない相手に、気が短い樋口は焦れ、距離を詰めるように更に近付く。
すると凪は一瞬身体を強張らせ、俯いたまま必死でかぶりを振った。
居場所など知らない事を伝える為にかぶりを振ったのだが、樋口からして見れば、その姿は教えないと告げているように見える。
苛立って大きな舌打ちを零し、樋口は唐突に凪の片腕を掴んだ。
驚きと恐怖で凪が微かな悲鳴を上げると、樋口は口元を愉快そうに緩め、喉奥で笑った。
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