恋咲き…04

「このまま捻り上げれば、簡単に折れそうだな。痛い想いをするのは嫌だろう?」
「や…や、やめ、て…くだ、さい…」
 今にも泣きそうな声が上がると、樋口は目を細め、浮かべていた笑みを消す。
 直ぐ泣くような弱気な男を心底嫌っている為、漸く聞こえた凪の声を耳にして、腕を掴む力を少し強めた。
「……やめて欲しけりゃ、猛の居場所を吐け。それとも、五体バラバラになるまで庇い通すか?」
 冷淡で残忍な言葉を放たれ、凪の身体はみっともない程に震えだす。
 既に泣き出しているだろうと考える樋口の前で、凪は未だ俯いたまま嫌がるように弱々しく、再度かぶりを振った。
「僕、僕は…兄さんが、何処に…居るか、なんて……知りません…」
 弱々しく震えた声が上がると、樋口は顔も見えない相手を冷たく見下ろす。

 ―――――ハッキリと喋る事も出来なければ、言葉を返すのも遅い。何もかもが、癪に障る奴だ。
 苛立ちを強めた樋口は、腕の一本でもへし折ってやれば素直に吐く気になるだろうと考えを続かせ
 骨を折られる瞬間の、苦痛に歪む顔をじっくりと見る為に、凪の顎を乱暴に掴み上げた。
 とっくに泣いているかと思ったその顔は、腕を強く掴まれている痛みに目を瞑っているだけで、涙の痕は見当たらない。
 その上、猛にそっくりかと思っていた顔も全く似ておらず、樋口は意外そうに眉を顰めた。
 だが凪に対して興味が湧いたのはほんの一瞬だけで、掴んでいた腕を躊躇い無く捻り上げようとする。
 けれど―――。
 凪の瞼がうっすらと開き、その双眸と眼が合った瞬間、樋口は微かに息を呑んだ。
 此方を真っ直ぐに見上げて来る瞳は、力強く、縛り付けて離さないような魅力が有る。
 身体を震わせて怯えている凪とは、それはあまりにも対照的で、見れば見る程吸い込まれそうになった。
 真っ直ぐな視線を向けて来る双眸から眼が離せず、食い入るように見据えると、若干色が違う事に気付く。

「……眼の色が、少し違うな。赤…いや、鳶色か」
 良く見なければ気付けないなと考えた矢先に、凪は嫌がるように顔をほんの少し反らした。
「は、離して……」
 今にも泣きそうな声が上がると、樋口ははっとし、掴んでいた腕を直ぐに離してやる。
 顎からも手を離すと凪は直ぐさま、鉄骨の階段を音を立てながら駆け上がった。
 唐突に逃げ出した凪の背を目で追い、樋口は眉を顰めて後を追う。
 階段を上る際に響く音が自分一人のものだけでは無い事に気付くと、男が追い掛けて来ている事が嫌でも分かり、凪は強い恐怖感に駆られる。
 短い階段を上り切っても後ろを振り向けず、休む間も無く廊下を走り抜けた。

 ――――あの人は、恐い人だ。
 次に捕まったら、あの人が言った通り、きっと五体バラバラにされるんだ。

 息を切らしながら凪はそう考え、後ろを決して振り返る事無く、一番奥の部屋の前まで全力で走った。
 ドアの前で立ち止まると、もう大丈夫だと安堵し、直ぐにドアノブを掴んで引く。
 だが鍵が掛かっている所為で扉は開かず、凪は慌てて家の鍵を探そうと鞄の中を漁り始めた。
「……坊や、そんなに血相変えて逃げるんじゃねぇよ、」
 唐突に声を掛けられ、凪は小さな悲鳴と共に身体を跳ねさせた。
 恐る恐る顔を向ければ、息を全く切らしていない、涼しげな顔をしている男が目に映る。
 足が遅いながらも全力で走って息を切らし、汗まで伝わせている自分とはあまりにも対照的なその姿に焦り、凪は一歩だけ後退った。
 すると樋口は、まるで獲物を追い詰めるのを愉しむかのようにゆっくりと足を進め、距離を詰めて来る。
 その事に凪は余計に怯え、距離を取ろうと後退るが背中は直ぐに壁に当たってしまう。
 自分が今通って来た方向にしか逃げ場は無いが、樋口が道を塞いでいる所為で逃げられる筈も無い。
 反対側は行き止まりで、そこに追い詰められた凪は逃げ場を失い、胸中で何度も猛を呼んだ。
 怯えを露わにしている姿に樋口は苦笑し、凪が汗を浮かばせている事に気付くと、拭い去ってやるつもりで手を伸ばした。

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