恋咲き…05

 だが凪は、樋口の大きな手が自分を傷付ける為に向けられたのだと勘違いし、悲鳴を零す。
 鞄を両手で掴むと、それを顔の前にかざし、手が近付くのを防いだ。

「……名前は、」
 拒絶される事に気を悪くするが、殴り付けたい衝動や怒りは、不思議と湧いて来ない。
 凪の腕を乱暴に掴む事も無く、鞄を叩き落す事もせずに、静かな口調で無意識に尋ねた。
 今まで放ったどんなものよりも穏やかな声音で、樋口は内心、そんな声を上げた自分に驚く。
 穏和な声を耳にした凪も、恐る恐る鞄を少し退け、驚いたように樋口を見上げた。
 此方を見上げて来る瞳に釘付けになりながらも一度咳払いし、この青年の事をもっと知りたいと云う欲求に駆られる。
「お前……いや、貴方の名前は?」
 先ずは怯えを少しでも和らげて警戒を解かせる為に、丁寧な口調で訊き直すと、凪は目を丸くした。
 反応の良さに思わず口元を緩めた樋口の表情を目にして、凪は少し躊躇いながらも、うっすらと口を開く。
「名…前は、水嶋、ですけど…」
「いえ。苗字では無く、下の名前です」
 苛立つ素振りも見せずに軽くかぶりを振りながら、優しい声音で言葉を掛ける。
 名前など調べれば簡単に分かるが、どうしても彼の口から聞きたくなり、樋口は更に近付こうと足を進めた。
 だがそれに過敏に反応した凪は、怯えて肩を震わせ、逃げるように顔を背けてしまう。

「恐がらせてしまって、すみません。俺は少し耳が悪いので、近付かないと良く聞こえないんです」
 恐怖感を掻き消す程の優しく、穏やかな声が耳に入って、凪は目を見開く。
 内気な面が強い所為で普通の人より、声も小さくなってしまう事は自分でも分かっている。
 声が小さいと他人から咎められる事は多々有るが、今のように耳が悪いからと言ってくれた人間など、見た事が無い。
 本当に耳が悪いのかどうかは定かでは無いが、掛けられた言葉があまりにも嬉しく、凪は背けた顔を遠慮がちに戻した。
「………な、凪…です…」
 聞き取り難い程の小さな声が上がるが聞き逃す事は無く、樋口は一度浅く頷くと、もう一歩足を進めて凪に近付く。
「ナギ君、歳はいくつですか?」
「え、…じゅ、十八…です、けど…」
「十八歳ですか。若いですね」
 目の前まで近付かれ、長身で逞しい身体付きをしている樋口の迫力に微かに怯えるものの、逃げようと云う気持ちは薄れていた。
 逃げる素振りも見せず、素直に答えた事に気を良くした樋口は、改めて観察するように凪を眺める。
 最初に目にした時は、猛に似ていないとしか考え無かったが、良く見るとその顔は小綺麗に整っている。

 ――――男の癖に、随分可愛い顔をしているな。
 思わずそう思案した樋口は、自分の考えに驚いた。
 誰かを可愛いなどと、例え相手が女性であろうと、そんな考えを抱いた事は無いと云うのに……十八歳の子供に、ましてや男相手に抱くなど異常過ぎる。
 無意識に表情を硬くし、眉を顰めた樋口に凪は再び怯え始め、若干視線を逸らした。
 凪の怯えに気付くと樋口は内心焦り、懐から煙草を取り出しながら掛ける言葉を探す。

「…バイトをしているらしいですね。何のバイトですか、」
「あ…その…、荷物を…運んだり、とか…」
 小さな声で言葉を返されると、樋口は一本取り出した煙草を咥えながら、凪の細い手足へ視線を走らせる。
 こんな細い腕で荷物など持てるのかと訝り、煙草の先端にジッポで火を点けて煙を深く吸い込んだ。
 顔を少し背け、凪に煙が行かないよう気を配りながら紫煙を吐き出した後、言葉を紡ぐ。
「荷物運びなんて、大変そうですね。重すぎると腕が痛くなったりしませんか?」
「小さい荷物、ばかり…だから……その、大丈夫、です…」
 ようやく鞄を下ろした凪は少しだけ首を横に振り、聞き取り難い声量で答えた。
 凪の反応や態度を見る限り、内向的な面が強いのかも知れないなと、樋口は思う。
 大人しい人間や、臆病な男などを前にすると嫌悪感すら抱くが、何故か今は全く気にならない。
 自分の変化に気付いて僅かに苦笑し、樋口は無意識に片手を伸ばして、凪の頭に触れる。

[前] / [次]