恋咲き…06

 一瞬驚きに肩を跳ねさせるが、樋口の触れ方があまりにも優しい所為で、凪は逃げる気が起きなかった。

「…何か欲しい物でも有るんですか?小遣い稼ぎにバイトをしているんでしょう、」
「いえ…あの、生活費を…」
「生活費?」
「は、はい…その、父さん、足が…悪いから……僕が生活費、稼がないと…」
 若干目を伏せて答える凪の言葉に、樋口は胸を打たれる。
 生活費など、バイトでは稼げるのがやっとでは無いのかと考え、自分の欲しい物も買えずに居るのでは無いかと思うと、不憫にも思えた。
「若いのに、頑張っていて偉いですね」
「え…、…あ…」
 褒められただけで無く、優しい手付きで頭まで撫でられ、驚きに目を見開く。
 今では猛ぐらいしか自分を褒めてくれる人は居らず、その猛さえも行方を眩ましてしまった為
 他人に褒められて頭まで撫でて貰う事など久し振りで、凪は気恥ずかしそうに目を伏せた。

「……たまらねぇな、」
 照れているのか、うっすらと赤面して徐々に俯いてしまった凪を見て、樋口は聞こえない程度の声量で思わず呟く。
 凪を抱き締めてやりたい衝動に駆られるが、男相手に何を考えているのかと直ぐに思い直し、苦笑する。
 すると、それまで質問に答えるだけだった凪が、躊躇いがちに口を開いた。
「あ、あの…僕…兄さんの行方は…本当に、分からないので…あの、だから…僕、そろそろ…」
 言い難そうに小さな声を上げる凪に気付き、恐らく部屋に帰ると云いたいのだろうと、察する。
 猛の居場所を吐かせる事などすっかり忘れていた自分に気付いた樋口は、ゆっくりと凪の頭から手を離した。
 もう少し凪の声や話を聞いて居たいが、無理を言って困らせたくは無いと考え、浅く頷く。
「分かりました。それでは、今日はこの辺で失礼します。……今日は色々驚かせてしまって、申し訳有りませんでした」
 急に深々と頭を下げられ、驚いた凪は返す言葉を見失い、呆然と樋口を見つめた。
 頭を上げ、惜しむように凪を一瞥した後に樋口は踵を返し、その場から離れてゆく。
 振り返る事無く去ってゆく樋口を見つめながら、鼓動が速まっている自分の胸に手を当て、凪は微かに俯いてから深く息を吐いた。


 組員達が待つ場所へ戻ると、短くなった煙草を地面に捨て、靴底で踏み躙って火を消す。
 凪の前で捨てなかったのは、少しでも良い風に見られたいが為だ。
「…全く、どうかしてるな」
 火の消えた煙草を見下ろし、樋口は薄く笑う。
 女相手にも、あんな風に優しく触れて頭を撫でる事など、しなかった筈だ。
 凪のあの魅力的な瞳を見てから、そして健気な面を知ってから、どうも調子が狂っていた。

「お、親分…それでどうなったんですか?猛の居場所は、聞き出せたんですか?」
 組員達には声を掛けず、車へ乗り込もうとした樋口に阿久津は慌て、足早に近付きながら尋ねる。
 樋口は視線だけを阿久津に向けてから、うっすらと口を開いた。
「あの弟は、俺が吐かせる事に決めた。お前らはあのガキに近付くなよ、」
「親分、そりゃ…どう云う事っすか?」
 樋口の有無を言わさぬ強い口調にも負けじと、組員達の困惑を代弁するかのように、阿久津が小難しい表情を浮かべながら問う。
 すると樋口はサングラスの奥の双眸を細め、いささか愉しそうに口元を緩ませた。
「俺があのガキの所に通って、猛の居所を吐かせる。お前らは邪魔せずに、見張りを続けていろ。猛が戻って来るかも知れねぇからな」
「か…通うって、親分、ガキ嫌いでしょうに」
 珍しく機嫌の良い樋口の姿に組員達は驚き、阿久津も戸惑いながら言葉を紡ぐが
 樋口はもう耳を貸さず、車のドアを自分で開け、後部座席へと乗り込んだ。

 正直、猛の居所を吐かせる事は、どうでも良くなっていた。
 頭の中はもう凪の事ばかりで、笑った顔も見てみたいと考えながら、樋口は運転手に車を出すよう告げる。
 窓硝子越しにアパートの二階へと目を遣り、次は今日よりも多く言葉を交わそうと決めると、樋口は喉奥で低い笑い声を立てた。

終。


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