嘘…4
――――ひとを好きになるって、幸せな…ことだけじゃ、無いんだよね。
頷きながら青年が口にした科白は、確かにその通りだと、強く思う。
愉しいままでも嬉しいままでも、いられない。
好きになっても、両想いになったとしても、苦痛や淋しさは生ずるものだ。
ひとは、大抵が、今在るものより上のものを……次を、求めてしまう生き物だから。
「…だから、僕からして見れば凪さまは、すごい人だよ。」
若干嬉しそうに語ると、海藤はあからさまに憮然とした表情を見せた。
「その嫌そうな顔…凪さまを褒めると、これだもんな。凌ってホント、凪さまのこと好きじゃないんだね、」
「ああ。組長が惚れ込んでいる相手だから、仕方なく気遣ってはいるが……俺個人としては、ああ云う奴を見ていると虫唾が走る」
「僕は、凪さま好きだけどな。可愛くて、優しくて、何かこう…守ってあげたくなるし」
「悠樹…その科白、間違っても組長の耳には届かせるな。」
「届いたら、八つ裂き…かな? …それとも、お決まりの階段落とし?」
憮然とした表情を未だに崩さない海藤と違い、悠樹は笑い声を零す。
冗談めいた口ぶりで尋ねる姿には、緊張感など微塵も感じられない。
海藤が呆れ顔を浮かべた矢先に、廊下から控えめな足音が響き、声が掛かった。
丁寧な仕種で襖を開けた仲居が膳を運んで来ると、悠樹は咄嗟に目で追ってしまう。
次々と並べられる料理を眺めている悠樹の表情は、この上なく輝いている。
前菜の細工料理は色鮮やかで、春に合わせた穴子の桜葉寿司まで有った。
焼き魚や湯豆腐、唐揚げ、煮物、酢の物。サラダや茶碗蒸しに、季節に合った寒鱒の刺身。
仲居が退室すると、悠樹は豪華に並ぶ料理の数々に喉を鳴らして箸を取り、いただきますと挨拶を口にする。
逆に海藤は、挨拶など一切言わずに無言で箸を進めた。
それは今に始まったことでは無く、悠樹はあまり気にせずにいたが、運ばれた酒が海藤の手によって除けられたのを目にし、いささか驚く。
「珍しい。酒、呑まないの、」
「午後からまた出掛けるからな。酒の匂いなんぞさせていたら、組長の気に障る」
「日曜なのに…仕事? 本当に忙しそうだね。何か有ったの?」
「……ずっと行方を眩ませていた男が、とうとう動き出した。それだけだ、」
素っ気無い言葉を返されるが、場の雰囲気は少しだけ重くなる。
海藤の態度と云い、繁忙さと云い、その男はよほど重大視されているのだろうと、吸い物を味わいながらも思う。
話題にはそれ以上触れずに箸を動かし、暫く料理に没頭した。
「しぐれ茶漬け、食べたいな…」
不意に、悠樹が物足りなさそうに呟く。
この料亭の料理は、すべて文句無しに美味いのだが、一番求めていたものは蛤の時雨茶漬けだ。
落ち着きを無くしたかのように、悠樹はちらちらと襖へ目を向ける。
「大人しく待っていろ。あれが運ばれて来るのは、後の方だろう」
呆れた声音を掛けられ、すかさず、むっとする。
箸を静かに置いた悠樹は、睨むように海藤を見据えた。
が、廊下側から聞こえた女将の声に意識は直ぐに逸れ、襖へと視線を注ぐ。
「白岬さん、」
襖が開き、女将の姿が映ると、悠樹は嬉しそうに名を呼ぶ。
彼女に出会った事を喜んでいるのでは無く、その手が運んで来たものに対しての喜びだ。
それを十分判っている海藤は、内心呆れていた。
「悠樹さんがいつも此れを、愉しみにして下さっているので…今回は少し早めに拵えさせました。」
にこやかに微笑む女将に向けて、悠樹も人懐こい微笑を返す。
待ち侘びた時雨茶漬けを目の前に出されるものの、悠樹は直ぐに手を付けることもせず、落ち着いた様子で女将に声を掛ける。
「ねぇ、白岬さん。今日は万愚節だね」
「悠樹さんは誰かに嘘を吐くんですか?」
「好きなひとに、ね。好きで好きで仕方ないから苛めたくなるんだ」
「あら、意地の悪い…でも程々にしておかないと、女性は逃げてしまいますよ」
口元を抑えながら女将が淑やかな笑い声を立てると、悠樹は微かに双眸を細め、口端を上げて見せた。
「大丈夫。逃げたい、なんて考えられないぐらい夢中にさせるから、」
「まあ……まるで、以前の海藤さんのような口ぶりね」
海藤の方をちらりと見ながら驚きの声を零すと、悠樹は愉しそうに笑いだした。
だが海藤は気を悪くしたように眉を顰め、若干雑な手付きで茶を淹れ、呑み始める。
それに気付いた女将ははっとし、深々と頭を下げた後、慌てた様子で部屋を出て行った。
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