嘘…5
室内はしん、と静まり返り、沈黙を訝った悠樹が徐に、真向かいへ目を向ける。
「
浩樹のことか、」
海藤の姿が視界に入ったのとほぼ同時に、相手が口を開いた。
しかし、短い言葉では良く分からない。
急に兄の名前を出されても訳が分からず、訝しげな表情を浮かべると、海藤は低い声音で言葉を続かせた。
「浩樹を苛めるなんて、お前らしくないな」
「ああ、違うよ。好きなひとって、兄貴のことじゃないんだ、」
「……何だと、」
切れ長の目が、僅かに見開かれる。
相手からは見えない位置で、海藤は無意識に拳を固く握った。
「…お前、他の奴を好きになったのか、」
「そう。結構、かわいいひとだよ」
躊躇い無く答えると、それ以上は何も喋らずに茶を呑み、一度浅く息を吐く。
続いて箸を取り、焼き魚を食べ始めた悠樹を、海藤は暫し無言で眺めた。
「どんな女だ、」
やがて重々しく口を開き、慳貪な物言いで問う。
悠樹は目を丸くした後、控えめに笑って箸を置き、腕時計へ視線を向けた。
「もう12時を過ぎたね。正午だ、」
唐突に話をがらりと変えられ、海藤の眉がぴくりと動く。
短い返答すら零さない海藤の様子を見る限り、かなり苛立っているのだろうと察した悠樹は、ほんの少し肩を竦めた。
「凌ってさ、頭いい癖に、雑学とかにはてんで無知だよね」
「何が云いたい、」
「馬鹿だなって思って。」
「……悠樹、俺を怒らせたいのか」
普段よりずっと低い、ドスの利いた声を放たれる。
迫力の有る海藤に一瞬怯み掛けたが、悠樹は少し身を乗り出し、真っ向から相手を見据えた。
「怒るの? 僕を怒鳴り付ける? ……それとも、殴る?」
まるで相手を試すかのような、挑発的な口ぶり。
その唇には、笑みまで浮かんでいる。
整ったその口元に暫く目を向けていたが、やがて海藤は諦めたように、かぶりを振って見せた。
殴ることなど、出来る訳が無い。
一度でも手を上げてしまったら、悠樹はもう二度と………自分の傍で、笑ってはくれないだろう。
そんな、確信に近い予測が心の奥底に根強く有るのだから。
「……お前に傷一つでも付ければ、浩樹に殺される」
「違うでしょう、凌。あんたが恐がっているのは兄貴じゃなくて、僕にこれ以上嫌われることだ、」
悠樹の鋭い言葉に、内心、ぎくりとする。
何処まで見抜いているのか………ひょっとしたら、すべて見透かされているのでは無いか。
そう思うと、少しばかり焦燥感に包まれる。
「確かに僕は、凌に殴られたりしたら、嫌いになると思うよ。それだけは、はっきりと分かる」
「……さっさと喰え、」
話題から逃れるように、食事を促す。
悠樹は一瞬だけ目を見開き、続いて、くすりと甘く笑った。
「ねえ凌、好きだよ」
「またそれか…」
「本当に、大好きだから。」
「もう良い、黙れ。喰わないなら、帰るぞ」
告白の言葉を紡がれるが、海藤は本気には取らず、呆れた声を上げる。
苛立ったように顔まで背けてしまった海藤を暫く眺めた後、悠樹は再び箸を動かした。
それから十数分も経たぬ内に料理を平らげ、軽く頭を下げながら食後の挨拶を口にする。
続いて手巾で口元を拭い、茶を一気に呷った後、深呼吸した。
ちらりと窺えば、真向かいの海藤は無表情で携帯電話を操作している。
………………そろそろ、教えてやろうかな。
脳裏に浮かばせた己の考えに、意図無く口元が緩みだす。
「…あのね、凌。今日って、嘘を吐いてもいいのは午前中だけなんだよ。知ってた?」
携帯電話のキーを打っていた指が、ぴたりと止まる。
ひどく緩慢な動きで顔を上げた海藤の表情は、期待と猜疑心が入り混じった複雑なものに変わっていた。
「やっぱり知らなかったんだ? 本当に馬鹿だね、凌は。でも…そう云うところも、すごく好き」
双眸を少し細めて悪戯っぽく笑いながら、臆面無く告白した悠樹は
茶を淹れ直そうと急須へ目を移し、手を伸ばす。
―――――その刹那。
「悠樹…、」
手首を強く掴まれ、熱の篭もった低い声音で、名を呼ばれる。
真摯な双眸で真っ直ぐに見据えられ、悠樹の身体は簡単に熱を上げた。
脈も速まり出すが、平静は崩さずに海藤の指を眺める。
「なに、……もしかして、こんな処でするつもり? 白岬さんにバレたら、もう此処には来れなくなるよ」
「安心しろ。あの女に俺を拒む権利は無い。」
「やくざらしい発言だね。…ねえ、少し痛いんだけど」
笑いながらも、最後の方は咎めるような物言いで返すと、掴んでいた力が僅かに緩む。
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