嘘…08

 すると海藤は双眸を細め、うっすらと舌なめずりして見せた。
「何とでも云え。ただし、言える余裕が有るなら、な…」
 低い声音で囁かれ、首筋を舐められて、背筋がぞくりと震えた。

 自分が快楽を期待しているのは、十分過ぎるほど、判っている。
 けれど、此処で最後までするのは拙いだろうと云う考えも有った。
 どうするべきかと考え、視線を彷徨わせていた悠樹は、脱ぎ捨てられた上着へ目を留めた。
 ブランド物の高級なものだと云うのに、それは少し離れた位置に、無造作に置かれている。
 内側の隠しからは、携帯電話らしきものが僅かに見えていた。
 悠樹は不意に眉を寄せ、海藤の肩を軽く叩く。

「凌…携帯、光ってるよ。樋口組長じゃないの、」
 不満気な声色を放つと、海藤は実にあっさりと上から退き、上着を取りに戻る。
 その広い背を見送りながら身体を起こした悠樹には、気を損ねた様子は無い。

 樋口を心底崇拝している連中のなかで、樋口より色ごとを優先するものは一人もいないのだから
 海藤があの男を優先するのも、当然のことだ。
 十分過ぎるほど、それを理解している悠樹は、樋口に対して嫉妬する事も無い。

 それに…………色よりも義を取る海藤を、余計に愛しく思う。
 海藤のすべては、自分のものにならない。だから尚更欲しくなって、夢中になるのだ。
 まるで、むきになっている子供だなと悠樹は胸中で笑い、脱がされた下着と下衣へ手を伸ばした。

 少し離れた先で海藤は上着を手にし、隠しから携帯電話を取り出す。
 しかし変化は無く、画面には何も表示されていない。
 履歴を辿ってみるが、着信があった形跡すら無かった。
 訝りながら肩越しに振り返ると、いつの間にか服を着て、乱れを整えている悠樹の姿が目に映る。
 シャツの釦をきちんと留め終えた悠樹は、海藤の視線に気付き、魅力的な笑みを見せた。

「あれ、凌…知らなかったの? 万愚節じゃなくても、僕は嘘を吐く人間だよ。」
 悪びれた様子も無く、あっさりと声を掛ける。
 顔を顰めた海藤を気にする素振りも見せず、襖に向けて足を進めた。
「悪いけど、僕も午後から用事が有るんだ。出掛けないといけないから、これ以上はお預け」
「………悠樹、俺を此処まで虚仮にしておいて、それは無いだろう」
 上着を手にした海藤が、苛立った様子で目の前まで迫って来る。
 悠樹は臆することも無く、片手をすっと動かして相手のネクタイを掴んだ。
「凌だって、愛しの樋口組長が待っているんでしょう。遅刻したら、階段から落ちる羽目になるんじゃないの?」
 緩んでいたそれを、きちんと締め直してやりながら声を掛けると、海藤は思案するように目を逸らす。

 最近の樋口はひどく機嫌が悪い為、有り得なくは無い話だ。
 若干気まずそうに視線を戻すと悠樹は笑い声を零し、唐突にネクタイを引いた。
 引かれるままに顔を近づければ、背伸びをした悠樹が口付けて来る。


「ねえ、凌。僕はいつだって嘘を吐くけれど………この想いは、嘘じゃない。ちゃんと本物だから…忘れないでね、」
 海藤の唇を軽く舐めた後、目を細め、にこやかに微笑みながら囁いた。
 ネクタイから手を離すと悠樹は惜しむ素振りも見せずに踵を返し、襖を開けて出てゆく。

 部屋に残された海藤は暫し唖然とし、やがて深々と溜め息を吐いた。
 また振り回されている現状に、頭を抱えたくもなる。

 自分勝手で気紛れで、生意気な存在だが………殴り付けたいと云う衝動は、不思議と湧かない。
 何処まで自分は、悠樹に対してのみ甘くなるのか。
 ひょっとしたら樋口のようになってしまうのでは無いかとすら、思う。
 そんな自分を想像して、海藤は少しばかり辟易する。
 けれど――――。


 ……………悠樹になら、振り回されるのも悪くはない。

 ふと抱いた考えに、海藤は参ったように目元を押さえた。
 此れはもう手遅れだな、と考えると、笑いが込み上げて来る。
 まさか自分まで、こんな風になるとは予想もしなかった。

 予想も出来なかった現状が、今此処にあって
 己ですら知らなかった自分が、今此処にいることが、愉しくて堪らない。

「……俺も焼きが回ったか、」
 堪え切れずに口端を緩め、低く笑いながら海藤は進みだす。

 恐らく悠樹は、車の傍で待っている。
 けれど気まぐれな性格の彼は、あまり待たせると、勝手に何処かへ行ってしまうのだ。

 数秒ですら経過するのが惜しく、海藤は上着を着ることもせず片手に持ったまま
 急ぎ足で颯爽と、その場を後にした。



終。

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