誓約…07

「……ナギ」
 ベッド上で身体を起こし、静かな口調で名を呼ぶ。
 それまで狸寝入りをしていた凪は、唐突に呼ばれた驚きで身体が反応しそうになったが、なんとか凌ぐことが出来た。
 瞼をそっと開けてみるが、普段と違って、正面に樋口の姿は見えない。
 自分が勝手に怒り出したのが原因だが、素直に謝る気にはなれず、きつく瞼を閉ざす。
 その間、樋口は二、三度名を呼ぶが、凪は相変わらず無反応だ。


(……いい加減、限界だ。)
 無防備な凪を前にして、強い衝動が湧き起こり、樋口は凪の上へのしかかった。
 瞬間、微かだが、凪が息を呑んだ気配が伝わる。
 寝たフリをしていたのだと漸く気付き、樋口は苛立たしげに舌打ちを零した。


 ―――――そうまでして、言葉を交わしたくないのか。
 ―――――狸寝入りを決め込めば、何もして来ないだろうと甘い考えを抱いていたのか。
 浮かんだ考えに苛立ちは更に強まり、樋口は感情を抑え切れず、凪の肩を強引に引いて向き合った。
 骨格の細い顎を掴んで固定し、顔を近づける。

「…ナギ、」
「や、やだ…」
 唇を奪おうとするが、それは凪の両手によって阻まれてしまう。
 眉を顰めた樋口は一度歯を咬み、凪の非力な両腕を素早く捕らえて一纏めにし、シーツの上へ押さえつけた。
 普段は優しく、自分をあまり手荒に扱わない樋口に、此処までされるとは予期しておらず
 凪は信じられないと云うように、瞳を大きく見開いた。

「凪君…俺も限界なんですよ。……お前に触れないと、おかしくなっちまう」
「あ…っ…」
 首元へ顔を寄せた樋口が、肌へ口付けてくる。
 そのまま、じっくりと肌を舐められて、凪は身体を震わせた。
 が、すぐさまかぶりを振って、嫌がるように身を捩る。

「やだ、やだよ…、樋口さん…っ」
「ナギ…俺を拒むんじゃねぇよ。云っただろう、限界だと…」
 凪のおとがいを押して唇を開けさせた上で、樋口は強引に唇を重ねた。
 何度も唇を吸われ、咬み合せが深くなると容赦無く、樋口の舌が口腔へ滑り込んでくる。
 凪は慌てて舌を逃すが、難無く、樋口に絡め取られてしまった。
 執拗に樋口の舌がからまり、時折、甘く噛んでくる。
 息を継げず、凪が苦しそうにあえいでも、樋口は構わず、舌の付け根を強く吸い上げた。

「んっ……んん…っ!」
 目の前が霞むような快楽に、凪の身体は容易く熱を上げる。

「凪君、…いいですか?」
 凪に触れたことで多少余裕を取り戻した樋口が、そっと唇を離し、静かな口調で問う。
 口付けに酔わされて息を乱していた凪は、それでも譲らずに、視線を少しだけ逸らした。
「…触れるだけ、なら……でも、あれは………やだ、」
 あれと云うのはセックスのことだろうと、樋口は素早く察する。
 頬を染めてまだ息を切らしている、魅力的な凪を前にして
 耐えられる筈など無く、樋口は内心溜め息を吐きたくなった。

「ナギ、お前……いつまで意地を張って、拗ねているんですか?」
 苛立ちの交じった言葉を浴びせると、凪はびくりと肩を揺らす。
 樋口の言葉は、尤もだ。けれど凪にも譲れないものが、ある。

 自分ひとりだけの問題なら、ここまで意地を張ることは無かった。
 けれど、樋口の…………何よりも、大好きなひとの誕生日だから、譲れないのだ。


『―――――くだらねぇ事。』
 本心を告げたとしても、そう云われるかも知れないと思うと、怖くて堪らず、臆病になってしまう。
 何よりも好きなひとに云われるからこそ、何倍も傷付いてしまう言葉だって有る。
 凪は素直に理由を告げることも出来ず、戦慄いた下唇をきつく噛んだ。
 涙も流さず、ただ悔しそうに唇を噛む凪の姿は、樋口には充分、応える。


「だって、僕は…祝いたいだけ、なのに……僕、僕は、好きなひとの為に…お金を稼ぐことも、駄目なの…?」
 唇を親指で抉じ開け、噛ませないようにしてやると、せきを切ったように凪は胸中をさらけ出す。
 悲しげに声を震わせる凪を前にして、樋口は言葉を失くした。

 しかしどうしても、外で働くことは許してやれない。
 凪を甘やかしてやりたいのも有る。が、一番の理由は――――未だに消息が掴めない、猛の存在だ。
 猛の居所すら分からない今の状況で、凪を外で働かせる事は危険過ぎる。


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