誓約…08
あの狂犬を、二度と、凪には近付かせたくない。
そんな望みを持っている所為で、結果的には凪の自由を奪い、その純粋な気持ちを踏み躙ってしまっている。
今回は、自分が悪い。樋口は、そう認めざるを得ない。
強くも出られず、樋口は深々と溜め息を零す。
(―――――生殺しだな。)
胸中で苦笑しながら、樋口は凪の身体を抱き締めた。
凪がびくりと身体を震わせたが、華奢な背を優しく撫でてやるだけで………それ以上は、何もしなかった。
12月24日の、正午。
鳥籠のような部屋から出て階段をのぼった先、扉の向こう側の
組員が常に待機している部屋で、凪はソファに腰掛けていた。
結局、働く許可を貰えなかった所為で沈んだ色を隠せず、重苦しい雰囲気を纏っている。
樋口は、龍桜会の幹事長から連絡が入ったのを理由に先刻、部屋を出て行ったばかりだ。
向かい側のソファには阿久津が腰掛け、上機嫌な様子で携帯電話を操作している。
その背後には、姿勢良く背筋を伸ばして立つ杉野の姿があり
瀬尾は阿久津が座っているソファの脇に立ち、手にした書類へ目を通していた。
杉野へ視線を向け、続いて正面の阿久津を躊躇いがちに見つめた凪は、微かに口を開く。脳裏には、樋口の姿が鮮明に浮かんでいた。
「あ、あの…阿久津さん」
「はいはい? 何すか?」
小さな声が掛かると、阿久津は携帯電話を閉じ、素早く顔を上げる。
杉野も訝しげに、凪を見遣った。瀬尾は相変わらず、書類を見つめたままだ。
二人分の視線が向けられる事に緊張した凪は、慌てて俯いた。
少し間をあけてから、気まずそうに言葉を紡ぐ。
「…樋口さんの…誕生日が、明日だって…知って…る…?」
「ああ。そりゃあ知ってますよ」
「お祝い、とかは…」
「よそなら派手に祝うんすけど、樋口組はやりませんぜ。親分、ご自分の誕生日嫌いなんすよ」
「ど、どうして…?」
「天下の樋口組組長の誕生日がクリスマスなんざ、笑い話にしかならねぇからじゃないっすか?」
咄嗟に目線を上げると、可笑しそうに笑う阿久津の姿が映る。
阿久津の言葉を聞いても凪は諦めきれず、誕生日プレゼントを渡す自分の姿を思い描き、目を伏せた。
多少鈍い阿久津は、凪の沈んだ様子には気付かず、笑うのをやめようとしない。
それを、瀬尾が書類から目を離さないまま、やんわりと咎めた。
「兄貴、笑いすぎですよ。口、引き締めてください」
「…おまえ、ほんっと可愛げねぇな。どっかで、可愛げ買って来いよ」
「……僕…樋口さんに、お祝い……したいな…」
追い払うように手を振る阿久津を、無言で見下ろしていた瀬尾が微かに眉を顰めた瞬間、小さな声が響く。
阿久津は一瞬だけ目を見開き、正面の凪を物珍しげに見据えた。
「何云ってんすか、すればいいじゃないっすか。凪さまに祝って貰えれば、喜ぶと思いますよ」
「そ、そうかな…?」
「惚れた相手に祝われて、嫌な気になる男なんざ居ないでしょうに」
「そ…そうかな……樋口さんって、なにが…好きなのかな…」
「は? そりゃ、凪さまに決まってるでしょう」
当然だとばかりに云ってのける阿久津に、凪は慌てて、かぶりを振った。
白い頬には、ほんの少し赤みがさす。
「そ…そうじゃなくて…その、プレゼントとか…」
「ああ……親分の好きなもんか。煙草と酒、回転拳銃だろ。高級車に腕時計や…あと、なんだったっけか?」
肩越しに振り向き、背後の杉野に声を掛ける。
杉野は思案するように目線を斜め下へ向かわせ、やがて口を開いた。
「自分は、ジッポライターに凝っているって話を聞いたことがあります」
「…だ、そうですよ、凪さま。しかし親分は高級品しか持たないお方っすから、凪さまが買ってやるにはキツイんじゃないっすかね。ああ、でも煙草なら買えますぜ」
「な…なるべく、その…残るほうが…いいな…」
両膝をきつく掴んだ凪の、遠慮がちな声が響く。
金銭のことを気にしている為か、表情は次第に、曇ってゆく。
「じゃあいっそ、ペアとかどうっすか? アクセサリー…は、親分の柄じゃねぇな。ああ、携帯のストラップとか」
阿久津は、そんな凪の様子に構わず、自分の携帯を見て名案とばかりに人差指を立てた。
ペアと聞いた凪は恥ずかしそうに赤面し、深く俯いてしまう。
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