誓約…09

「でも…僕……携帯電話…とか、持って…ないし…」
 聞こえ難いほどの小さな声でぼそぼそと喋る姿に、阿久津は苦笑する。
 携帯電話を持ったところで、連絡相手は樋口しかいないのだろうと考えると、些か不憫にも思えたのだ。

「それに…お金も……あの、阿久津さん、その……お金…貸し、貸して、くれませんか…?」
 云い難そうに、ゆっくりと時間を掛けながら願い出た凪に、阿久津は口元を緩めた。
 凪を真っ直ぐに見据えていた双眸が、すっと細められる。
「凪様、やくざに金借りたら、どうなるか分かってんすか? ……利子、高くつきますぜ、」
 少し身を乗り出すように上体を屈め、低い声音を放って凄む。
 無論揶揄だが、充分迫力が有る所為で本気と捉えてしまった凪は、返答に詰まる。
 困り顔で視線を彷徨わせている、落ち着かない素振りの凪を心底愉しんでいた阿久津だったが
 部屋の扉が開くと、何事も無かったかのように携帯電話を開いて、操作し始めた。

「親分、遅いっすよ。龍桜んトコの幹事長さんと、なぁーに話してたんっすか?」
 室内に足を踏み入れた相手に向けて、阿久津は携帯電話のキーを打ちながら声を掛ける。
 しかし樋口は何も答えず、真っ先に凪へ視線を留め、近付いてゆく。その表情は、些か険しい。
 なにごとかと訝った阿久津が携帯電話を再び閉じると、樋口は周囲の人間にも聞こえるほどの声量で凪に話しかけた。

「凪君、これから龍桜会の幹事長の処に行くんですが…一緒に、来ますか?」
「い、いいの…?」
 樋口は眉根を寄せ、露骨に不機嫌そうな表情だったが、凪は対照的に顔を綻ばせる。

 龍桜会の幹事長と聞いて脳裏に浮かぶのは―――幹事長の情人と云われている、まるで人形のように完璧に容姿が整った、うつくしい人物だ。
 過去に一度だけ、凪はその人物と対面したことが有る。
 以前、樋口の別荘へ連れて行って貰った時に、どう云う訳か、幹事長がその人物を連れ添って訪ねてきたのだ。
 よほど重大で、ほかの人間には聞かれたくない話だったのだろう。
 話が終わるまでは別室でその人物と過ごすよう、申し訳無さそうに樋口に云われたが
 凪はその人物に、ものの数分で夢中になった。

 相手の仕種のひとつひとつが、あまりにも淑やかで、そして向けられる笑顔が、とてもきれいで……
 透き通った柔らかな声で話しかけられても、凪は放心して、言葉を返せなかったほどだ。
 結局、まともに話すことが出来無いまま別れた所為で、次こそは会話をしよう、と密かに決めていた。
 だから樋口の誘いは、凪にとってこの上無く、喜ばしい事だ。


 嘉島の抱き人形に、凪が懐いていることを知っている樋口は、凪の喜ぶ姿を見て心底苛立つ。
 傍らのソファを蹴り倒したくなる衝動を抑えようと、浅く息を吐いた。

「凪君、帰りに……街を回ってみませんか?」
 嘉島の処へ連れてゆくのは、凪を外に連れ出すきっかけに過ぎない。
 我ながら情け無いが、仲違いしている最中でも、凪と出かけられる方法と云えば
 今の時点では、これしか思い浮かばなかった。

「う、うん…いい、よ。……樋口さん…あの、蓮さんは、……いる、かな?」
「……ええ、居ると思いますよ」
 了承を貰っても、安堵する間は無く。
 凪が嬉しそうに抱き人形の名を口にした為、樋口は胸中で舌打ちを零す。
 苛立ちをおもてには出すまいと、何とか堪えて優しい表情を作るが、声は若干低くなってしまう。


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