誓約…10
微妙な変化に気付けない凪は、浅く頷いた樋口を見て瞳を輝かせ、蓮に会える喜びで悩みも忘れ、口元まで緩ませた。
その瞬間、樋口から発せられる雰囲気が重苦しく、黒々しいものに変わる。
杉野や瀬尾、鈍感な阿久津までもが、それに気付いて居心地悪そうに目を逸らしたり、俯くなかで
凪だけが樋口の心情を知らず、幸せそうに笑っていた。
瀬尾の運転する車が、鳴明高速を滑らかに疾走する。
助手席に座していた阿久津は、ミラー越しに後部座席の二人をちらりと見遣った。
いつもなら、仲睦まじく言葉を交わし合っている筈の樋口と凪が、車内に乗り込んでから、一言も口を利いていない。
それどころか凪は樋口から距離を置くようにして隅に座り、窓の外へ目を向けている。
流れてゆく景色に目を凝らしている凪は、出際に樋口が告げた言葉によって、気を沈ませていた。
――――凪君への、クリスマスプレゼントを買って差し上げたいので。
街を回る理由を尋ねると、そう返されたのだ。
自分は貰うばかりで、あげる立場にはなれないのだと再び思い知らされ、溜め息まで零れそうになる。
一方で、凪の胸中を推し量れない樋口は、憮然とした表情を崩さない。
車中の重苦しい雰囲気に息が詰まりそうになった阿久津は、ミラーから視線を外す。
樋口が凪を抱けずにいる事は、勘付いた瀬尾から既に聞かされている。
だが、あの内気な凪が此処まで、あからさまに拒むとは思ってもみなかった。
(親分のことだけ、考えてくれりゃあ良いのにな…。)
スーツの袖を捲くって腕時計を確認し、胸中でぼやく。
どう云う神経をしていれば、同性相手に恋愛感情を抱けるのか、まったく理解出来ないが
囲われている以上は女と同じように、樋口に縛られて大人しくしていればいいのだと思う。
樋口が求めれば素直に足を開き、四六時中樋口のことばかりを考えて、ほかの人間のことは一切考えない。
不自由の無い、楽な生活を与えられる代わりに、己の持つすべてを捧げる。
些か可哀想だが、それが、囲われものの役目だ。
(親分の機嫌を損ねないよう、努力してくれなきゃ困るぜ……やっぱ、そう云うのは女の仕事だな。)
細い秒針を目で追いながら思案したのち、阿久津は肩越しに振り向いた。
「親分、龍桜の幹事長さんに何の用なんすか? また、悪巧みでもするんすか?」
緊張感の欠片も無い声が車内に響くと、樋口は鬱陶しげに阿久津を見遣る。
「いつの時代の話をしてやがる」
「ついこの前っすよ。龍桜の幹事長さんと組んで、絵図描いてたじゃないっすか」
「…樋口さん、絵を…描くの?」
窓の外を見つめていた凪が興味深そうに樋口のほうへ顔を向け、小さな声で尋ねる。
この世界のことを全く分かっていない発言に、阿久津は軽く吹き出したが、樋口に睥睨されると咄嗟に口元を押さえる。
「そうですね…風景画なら、ガキの頃に習いましたので描けますよ」
「樋口さん、すごいんだね…」
凪が思わず感心の声を上げるが、樋口は鼻にも掛けず、薄く笑う。
先刻までの重苦しい雰囲気が大分薄れたのを感じ、阿久津は口元から手を離して言葉を挟んだ。
「英才教育、っつーんすか? 前にカシラから聞いたんすけど、親分、ちっせぇ時にそれ受けてたらしいんすよ。いやー、金持ちってのは自分の子供に金掛け過ぎですね。
……ああ、そうだ、親分。ずっと気になってたんすけど、カシラのことまだ許してないんすか?」
凪に話し掛けていた阿久津だったが、不意に思い出したかのように、海藤の話題を口にする。
海藤は以前、樋口の怒りを買った所為で、若頭の座から外された。
その為、樋口組は今、若頭の席が空いたままになっている。
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