『 ラグナレック 』


 見渡す限り、何処までも広がる砂の海。
 陽が出て間もない時間に青年は一人で街を出、この場所へ辿り着いた。
 風によって出来た砂紋は、まるで細波のようで美しく、惹かれるものがある。
 見惚れて暫く立ち止まっていた青年は、ふと思い出したように足を進め、砂の斜面を登り始めた。
 急斜面では無いのが救いだったが、足は砂に取られ、何度か転びそうになる。
 あまり体力の無い所為で次第に息も切れ始め、汗が白い肌を伝った。

「なあ、リク。代わってやろうか? オレの方が、体力有るしさ」
 俯きがちに足を進めていた青年の耳に、多少低めの声が届く。が、周囲に人影は無い。
 息を切らしていた青年は手の甲で額を拭い、浅く息を吐いた。
 少しあどけなさの残る顔を上げ、まだ距離の有る砂の頂へ視線を注ぐ。

「いえ…僕が、きみに見せてあげたいんです。だから自分の足で歩かなきゃ意味が無い、」
 少し控え目の、透き通った声が青年の唇から零れる。
 言葉を終えた青年の唇は緩やかに閉じ掛けるが、すぐに薄く開き、低めの声が続く。

「オレは景色なんか、あんま興味無いんだけどなぁ」
「でも、昨日見たのは本当にすごかったんですよ。ヤヒロも、見たら忘れられなくなる、」
「本当かよ?大体オレとリクって、感性も価値観も違うだろ。 お前がすごいと思っても、オレは思わないかも知れないじゃん」
「きみは、いつも屁理屈ばかりですね。」
「オレは、いつだって正論しか言わないぜ。」
 言葉が交互に、青年の唇から零れてゆく。
 二人分の声を響かせながらも足を進め、青年はようやく斜面を登り切り、俯いたまま息を整えた。
 乱れた呼吸が整い始めると顔を上げ、漆黒の双眸を正面へ向ける。

 目に映ったのは、広大な砂。そしてその先には、一面に広がる紺碧の海。
 降り注ぐ日差しで砂は光り輝き、深みの有る碧色との対比は美しい。
 眼前に広がる光景は、易々と青年の心を捕らえた。

「…っ…すげぇ…」
 無意識に、言葉が零れる。
 眩しそうに双眸を細め、ごくりと喉を鳴らすと、すぐさま控え目な笑い声が響いた。

「ほら、やっぱり…ヤヒロもすごいって思うでしょう。昨日見た時、僕は言葉を無くしたもの」
「くそっ、何で昨日の時点でオレに見せてくれなかったんだよ」
「眠いから見ないって言って寝てしまったのは、きみでしょう。」
「ああ、そっか」
 視線は逸らさず、正面に向けたままで言葉を交わす。
 目を逸らすのが勿体無いと思う程に光景は美しく、鮮やかで、次第に言葉は消えてゆく。
 やがて言葉を全く零さず、青年は黙り込んだまま暫くの間、その場で立ち尽くしていた。
 ―――――が。
 何気なく目を移した先で、砂の海を進む人影を捉える。

「おいリクっ、まだオレが見てるっつーのに…」
「ヤヒロ、あれって…人、じゃないんですか?」
 目を凝らし、双眸を細めながら陸が呟く。
 陸の目を通して遅れながら人影に気付くものの、八尋は興味無さそうに、そうだなと答えた。

「そんな事より、景色見ようぜ。つーか、代われよリク。お前の目を通してだと、違和感が有る。 視力また落ちてんじゃねぇ?」
「あっ」
 八尋の声を掻き消すように、陸は大きな声を上げた。
 ふらついた様子で歩き進んでいた人影は、やがて躓き、砂の上へ倒れ込んだのだ。

「ヤヒロ、大変ですよっ」
「いや、だからな? リク…オレは景色が見たいんだよ」
「助けないと……あ、うわあっ」
 少し離れた先の人影は、倒れたまま全く動かない。
 その事に焦った陸は急ぎ足で駆け出したものの、砂に足を取られて躓き、大きく転んだ。

「だからな、リク。……ああ、くそっ! 代われっ」
 苛立った声が零れると陸は、お願いしますと控え目な声を零して、目を閉じる。
 数秒経つと瞼が緩やかに開き、小さな舌打ちが零れた。
 倒れた身体を起こして立ち上がり、服に付いた砂を払うと、前髪をゆっくりと後方へ掻き上げる。

「ったく、リクはいつでもお人好しなんだからな…参るよ、」
 浅い溜め息を零しながらも、すぐさま駆け出す。
 砂の所為で普段より速度は落ちるものの、斜面を転ぶ事なく駆け下り、八尋は倒れた人影を目指した。

(すごい、やっぱりヤヒロは速いですね。あの人、あんなに遠かったのに…もう直ぐ其処じゃないですか。)
 頭の中に響く陸の嬉しそうな声に、心が弾んだ。
 速度を緩める事無く人影の元へ辿り着き、少し離れた位置で足を止める。
 陸とは違い、息を全く切らさずにいた八尋は、不意に目を閉じた。

「オレは他人とか好きじゃねぇから、声掛けるんなら…リク、お前がやれよ」
「は、はい…、」
 ゆっくりと瞼が開かれると、控え目の声が響く。
 恐る恐る陸は倒れている人物へと歩み寄り、砂の上に膝を付くと相手の肩へ手を添える。

「あの……だ、大丈夫ですか?」
 心配げな声が零れるが、倒れたままの相手は微動だにしない。

「そいつもう、死んでるんじゃん?」
「ば、馬鹿言わないで下さいよ、ヤヒロっ」
「……う、るせぇ…」
 怒りの声を上げた陸の下で、低い呻き声が漏れた。
 慌てて相手の肩から手を離すと、倒れていた人物は砂の上に片手を付き、気だるげに身体を起こす。
 纏わり付いた砂が零れ落ちてゆく様を目で追い、陸はそろそろと視線を相手に戻した。

 自分の身体など簡単に覆い隠してしまいそうな程の、逞しい体躯。
 少しやつれてはいるが、端整で鼻梁は高く、怜悧さの有る男らしい顔付きをしている。
 切れ長の双眸が此方に向けられた瞬間、陸は息を呑んだ。

 深みの有る、碧色の瞳。
 先ほど目にした海よりも鮮やかな色で、吸い込まれそうな程に美しい。
 中々眼を逸らせずに居ると、男は不快気に眉を顰め、少しふらつきながら立ち上がった。

「あ、あの…」
 男を見上げ、声を掛けようとした陸は、相手の服に付いているものを見て言葉を失くす。
 所々が汚れている上衣は、胸元から腹部に掛けて、赤黒い模様がこびりついていた。

(……すごい派手な、模様…)
(―――馬鹿、あれは血だよっ)

「えっ」
 頭の中で響く八尋の言葉に、驚きの声が零れる。
 だが男は気にも留めず、陸に何も告げずに、ふらついた足取りで進みだした。
「あ、あの…それ、血ですよね? 怪我してるんじゃ…」
 咄嗟に声を掛けると男は振り返り、迷惑気な表情を見せた。
 一度視線を下げ、血の跡を眼にすると男は双眸を細め、口角をうっすらと上げる。

「これは俺の血じゃねぇよ。俺が、殺した奴らの血だ」
 微笑は冷笑と云うよりも疲れ切った笑みに見え、陸は言葉を返せずにいた。
 けれど男が進みだすと、無意識に足を動かして後を追う。


続く。


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