『 誓約 』
「もう終わりか。呆気ねぇな……」
薄暗い廃工場で、樋口は吐き捨てるように呟いた。
足元には男が――野田組の若頭、橋宮が転がっている。
まるでゴミでも見るかのように冷めた視線を向け、懐から煙草を取り出す。
すかさず、横で待機していた樋口組若頭補佐筆頭の阿久津がライターで火を点けた。
樋口は紫煙を深々と吐き捨てた後、舌打ちし、唐突に橋宮の腹を蹴り上げる。
鈍い音が響き、橋宮の苦しげな呻きが微かに聞こえた。
「手間掛けさせやがって……てめぇの所為で予定が狂っちまったじゃねぇか……どうしてくれる、えぇ?」
「お、親分、落ち着いてくだせぇ。そいつ殺しちまったら取れるもんも取れなくなりますぜ」
サングラスの奥の双眸を細めて何度も蹴り上げる樋口を、阿久津が慌てて止めに入る。
大きく舌打ちした樋口は、咥えていた煙草を吐き捨てた。
脳裏に、一人の青年の姿が鮮明に浮かぶ。
彼と過ごす時間を潰された上、もう四日以上も顔を見ていないし、声も聞いていないのだから、樋口の苛立ちは限界に達していた。
数日前、樋口組幹部の人間が一人、何者かに刺し殺された。
翌日には、相手が組の構成員でも無いチンピラだと判明したが、ようやく捜し出した頃には、そのチンピラも物言わぬ死体になっていた。
嘗められている事に腹を立て、樋口組の人間はこの数日間、休む間も無く虱潰しに調べ上げた結果――陰で糸を引く者が、野田組若頭の橋宮だと判明した。
すぐさま樋口組員が橋宮を拉致し、樋口の待つ廃工場へ連れ込んで痛めつけた。
橋宮のボディガードは、少し離れた先にいる組員達の足元に転がり、既に虫の息だ。
「もう直ぐ瀬尾が野田サンを連れてきますから……こらえてくだせぇ」
今直ぐにでもトドメを刺しそうな勢いで、殺気だった樋口を阿久津は宥めすかす。
橋宮を散々痛めつけた後、阿久津が野田組長に直接電話を入れ、『子が不始末なことを仕出かした責任はどう取るのか』と、尋ねたのだ。
迷う素振りも無く、野田はオトシマエをつけると云い、迎えに出した樋口組員の瀬尾と共に、此方へ向かっている。
野田が到着するまでの辛抱だが、樋口は数秒経過するだけでも苛立ちを強めていた。
歯噛みした樋口の様子に、阿久津が内心焦りながら頭を掻いた瞬間、背広の隠しから軽快な着信音が響く。
煩そうに眉を寄せた樋口が、舌打ちを零す。
阿久津は慌てて携帯電話を取り出すと、素早く通話キーを押して耳にあてがった。
「兄貴、どうですか? 組長のご様子は……」
「瀬尾か……早くしろよ。親分、すげぇご立腹だぜ」
「あと20分ほどでそちらに着きます。兄貴、頑張ってください。……2億ですよ、」
瀬尾は声を潜めて、小声で金額を口にする。
耳に届いた額の大きさに、思わず、阿久津は口元を緩める。それを見抜いたかのように、
「野田サンの前では、口を引き締めておいてください」
そう付け足して、素早く通話を終えた。
弟分の瀬尾の発言に気分を害した様子も無く、受話器から耳を離した阿久津は樋口に声を掛ける。
「オトシマエ、2億ですって。あるところにはあるんすね」
「端金だな」
阿久津の言葉に、その場にいた組員達は目を輝かせたが、樋口だけは相変わらず憮然とした様子で、冷淡な声を放つ。
組員達が気まずそうに俯くなかで、阿久津だけが乾いた笑いを零した。
樋口は普段から短気な性格だが、想い人に会えない日々が続いている所為で、余計に気は短くなっている。
時間が過ぎる毎に、樋口の刺々しい雰囲気は濃くなるばかりだった。
円形状の広い室内、ベッド上で目を覚ました凪は、恐る恐る隣を確認した。
しかしそこに樋口の姿は無く、凪の唇から溜め息が洩れる。
「ゴミを片付けてきます」と告げたきり、樋口は戻って来ない。
普段なら、外出中は電話を掛けてきてくれる筈なのに、今回はそれさえも無かった。
何かあったのでは無いかと不安を抱えている所為で、凪はここ数日、ろくに眠っていない。
昨夜も眠れず、ようやく寝付いたのは夜明け前だ。
壁に掛かっている時計をちらりと見遣り、ほんの三時間しか寝ていなかったことに気付かされる。
眠気はあるものの、樋口のことが気掛かりで眠りは浅く、心は常に騒いでしまう。
どうにか気を紛らわそうと、凪は広い室内を見回した。
部屋の中央には、大きなクリスマスツリーが置かれ、華やかな飾りや電光飾が巻きついている。
兄の猛と過ごしたクリスマスの想い出を話したら、樋口が購入してくれたのだ。
樋口は対抗意識を抱いての行動だったが、凪はそれに気付けず、猛とクリスマスを過ごせない自分に、気を遣ってくれているのだろうと幸せな勘違いをしていた。
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