誓約…03
女の慰め方は知っていても、流石に、男の慰め方は知らない。
しかも、相手は樋口組長の情人なのだから、下手な言葉も掛けられない。
思い悩んでいる凪を見て、杉野も暫くは悩んでいたが、やがて腕時計へ視線を向けた。
「凪さま、朝食出来てるんで、喰いましょうよ。腹が減っては、いい考えも浮かびませんし」
「え、あの……僕、お腹減ってなくて……」
「昨日もそう云って、晩飯喰わなかったじゃないっすか。やばいっすよ、少しでも喰わなきゃ倒れちまいます。そんな事になったら俺、樋口組長の前で腹切んなきゃいけなくなります」
物騒なことを平然と云われ、凪は怯えた色を顔に浮かばせる。
やくざの世界はやはり慣れないし、未だに良く分からない。
自分が倒れただけで、どうして杉野が腹を切るのか、凪にはまったく理解出来なかった。
けれど、そこまで云われてしまっては食べない訳にもゆかず、凪は理解出来ないまま頷いて見せる。
杉野は安堵したように笑い、一礼してから、食事を運ぶ為にその場を走り去った。
足音が高らかに響いて、やがて扉の開閉する音が耳に届くと、凪は再び溜め息を吐く。
脳裏には、樋口の誕生日のことが、ぐるぐると回っている。
「……どうしよう、僕……何かあげたいよ……」
困り果てた様子で眉根を寄せ、もう何度目になるか分からない溜め息を零した。
廃工場の入口前で停まった車から中年の小男が降り、青褪めた顔で進み出す。
男の周りは、既に数人の樋口組員によって囲まれている。
どれも腕に自信がありそうな、屈強な身体に厳つい顔の男たちばかりだ。
風体だけで無く、中身も肝が据わっている、冷酷で無慈悲な連中だろうと、想像はつく。
武闘派の看板を掲げている樋口組の組員なのだから、見てくれだけでは、やっていけないのだ。
獰猛そうな連中の雰囲気に圧倒され、樋口組の人間には決して目は合わせまいと視線を下げたまま、男は阿久津の前に立った。
「ご苦労さまっす。……うちの親分、相当ご立腹なんすよ。だから、あんたのところのカシラ、ほんの少し痛めつけちまったんですけど……許してくれますかねぇ?」
スラックスの隠しに両手を突っ込みながら、阿久津が慇懃無礼に声を掛ける。
小馬鹿にするような目つきで見下ろされても、野田は眉すら顰めることなく、深々と一礼した。
「も、勿論です。この度は、うちのモンが勝手な真似を……ほんまに、すんませんでした」
頭を上げた野田は素早く、背後の部下に向けて「出せ」と声を掛けた。
野田組の組員たちは持っていたケースを開け、阿久津や樋口に中身を見せる。
きっちりと詰められた札束を目にすると、阿久津が口笛を吹いた。
「ちっせぇ組の癖に、よくもまあ、あんな金出せるもんだ」
「兄貴、聞こえますよ」
脇に立っていた瀬尾が、やんわりと咎めたが、阿久津はほんの少し肩を竦めるだけで、態度を改めることはしない。
「別にいいじゃねぇか、聞こえたってよ。どうせあちらサンには、ドンパチする気なんざねぇんだし。……おいッ、橋宮のダンナを連れてきな!」
工場内に向けて阿久津が声を張り上げると、威勢良く返事をした組員数名が、橋宮を手押し車の上に乗せて運んでくる。
ぞんざいなその扱いは樋口の案で、あきらかに野田を挑発していた。
だが野田は、憤る様子も見せず、低姿勢を崩そうとしない。
目の前まで運ばれた橋宮の姿を目にして、僅かに顔を顰めるだけだ。
橋宮の姿は、見るも無残なものだった。
左足と利き腕の骨が折られ、顔は腫れ上がり、開いたままの口からは歯がほんの数本しか見えない。
歯は殴られて折れたのではなく、恐らく、抜かれたのだろう。
これで“ほんの少し”かと考えた野田の背筋に、寒気が走った。
「なあ、野田サン……アンタも自分の子は可愛いだろう。子がそんな目に遭っても、黙って納まるのか」
沈黙を保っていた樋口が、サングラスの奥の双眸を細めて、不意に煽りを入れた。
それでも野田は乗っては来ず、部下に橋宮を運ばせると、樋口に向けて頭を下げた。
「勘弁してください、樋口組長。ワシは組を守りたいんです。貴方のところとやり合うつもりなんて、無いんですよ。樋口組とやり合ったら、うちは終いです。あいつは破門……いや、絶縁にしますから、どうか……どうか……」
何度も頭を下げる野田の身体は、情けないほど震えている。
樋口は苛立たしげに舌打ちを零し、野田に向けて顎をしゃくった。
立ち去るよう促され、野田は深々と一礼した後、部下とともに車へ乗り込み、去ってゆく。
早々と逃げてゆく姿に、樋口の苛立ちは募るばかりだ。
以前、桜羅会の傘下から抜け、樋口組は一本でやってゆくと決めたのにも関わらず、潰しに掛かる組織は未だに現れない。
それと云うのも、樋口組はあまりの武闘派ぶりで、他組織からも一目置かれている。
冷酷な樋口組長は、一度でも刃向かってきた者には情けも容赦も無く、激烈な報復行動で相手組織を壊滅にまで追い込むことで有名だ。
樋口組に戦争をし掛ければ間違いなく、ただでは済まないと誰もが分かっている。
その所為で、今では張り合いのない日々が続いていた。
武闘派の樋口にしてみれば、相手が食って掛からないのは、退屈で仕方がない。
少し恫喝すれば、野田のように尻尾を巻いて逃げてゆく者ばかりだ。
暴力を売りにする筈のヤクザの癖に、啖呵も無ければ度胸も無い連中ばかりで、命をかけてまで意地を通す人間も居ない。
誰も喧嘩を売って来ない現状に優越感など得られる筈も無く、不満ばかりが強まってゆく。
樋口だけでなく、何人かの組員も物足りなさそうな表情をしていた。
苛立ちを抑えるように煙草を取り出し、樋口は自分で火を点け、大きく舌打ちを零した。
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