誓約…04

「このガキ、ワシに恥掻かせおって……ッ」
 廃工場から大分離れた場所で、野田は橋宮を車中から放り出した。
 顔は憤怒の表情で、先刻までの臆病な姿はどこにもない。
「なんでよりによって、あの樋口組の人間なんかに咬み付いたんだっ、ええ?」
「す、すんません……でも、あいつが……俺の女に手ェ出しやがって……」
「女の一人や二人、いくらでもおるやろ、ぼけが! てめぇの女なんぞ知ったこっちゃねぇ! ワシの組がのうなってもええんかっ、おぉっ?」
 樋口に終始低姿勢だった鬱憤を晴らすかのように、野田は橋宮を蹴り上げた。
 折れ曲がっている足を容赦なく踏みつけると、橋宮の絶叫が響く。
「ワシの顔に泥塗りおって……いいか、あの2億はワシの組を守る為だ。てめぇの為に出す訳がねぇ……てめぇはもう、絶縁だ。おい、絶縁状回状しとけ」
 部下に命じた後、野田は唾を吐き捨て、車に乗り込んだ。
 橋宮を置き去りにして、車は無情にも去ってゆく。
 それを恨めしげに見送り、橋宮は獣のように呻いた。
「くそ……あの野郎も、俺をこんな目にしやがった……樋口、も……、」
 憎悪の念を抱いた橋宮は、最後まで云えずに意識を失った。


 凪は杉野に頼み込んで、求人雑誌や折込チラシなどを幾つも持ち込んで貰い、自分が出来そうなアルバイトに印をつけていた。
 それだけではおさまらず、書かれてある番号に電話まで掛けようとしたが、樋口が不在の時にそれは流石に拙い、と。先刻、杉野が慌てて止めたばかりだ。
「しっかし……凪さま、意外と行動力有るんですね」
 新たに広告を持ってきた杉野が、感心の声を上げる。
 内向的な彼は普段、歯切れの悪い喋り方をするものだから、行動力もあまり無さそうだと思っていたのが、本音だ。
「凄いっすよ、そう云うのって」
 飾らない直球的な言葉で褒められ、凪はほんの少し照れたように笑う。
 反射的に杉野が笑い返した瞬間、扉の開く音が響いた。
 ゆっくりと此方へ近付いてくる靴音を耳にして、凪の瞳が見開かれる。
 廊下のほうに視線を注ぐ凪につられ、杉野も目を向けると――樋口が、姿を現した。
 樋口は杉野を一瞥しただけで声は掛けず、ベッド上にいる凪のもとへ真っ直ぐに向かう。
「樋口、さん……お帰り、なさい……」
 目の前まで近付いた樋口が上体を屈め、抱き締める前に、凪は自ら両腕を伸ばして抱き付いた。
 その光景に杉野は慌てふためき、樋口が見ていないのにも関わらず一礼して、逃げるように去ってゆく。

「凪君、いい子で待っていましたか? ……顔色が、少し悪いですね」
「……さ、さびしくて……心配で、……眠れなかった、から……」
 震えた声で本音を零す凪を前にして、樋口は胸を熱くさせた。
 今すぐにでも衣服を剥がし、華奢な身体を組み伏せてやりたい衝動に駆られ、それを何とか抑えているとシーツ上にある雑誌や広告が目に留まり、眉を顰めた。
 身体を離して徐にそれを手に取った樋口へ、遠慮がちな声が掛かる。
「あの、あの……僕、……バイトが、したくて……」
「バイト?」
「う、うん……樋口さんの誕生日プレゼント、買いたい……から……」
「駄目です」
 一考する様子も無く即座に反対され、凪は目を丸くした。
 次第に、表情は悲しげなものに変わる。
「ど、どうして……」
「凪君は働かなくていいんです。欲しい物が有るのでしたら、俺が買って差し上げますよ」
「で、でも……僕……バイト……」
「絶対に、駄目です。」
 最後まで云わせまいとするかのように、強い口調できっぱりと返され、凪は言葉を失くした。
 納得のゆく理由を告げてもくれない樋口に対し、誕生日を教えて貰えなかった事も重なって、珍しく不満を抱く。
 凪の不満を察したかのように樋口は眉を顰め、続いて、つまらなさそうに視線を逃した。
「……俺の誕生日なんざ、祝って貰うほどのものでは有りませんよ」
 耳に入った言葉はあまりにも素っ気無く、凪は胸を痛ませる。

 ――好きなひとの誕生日だから、祝いたいのに。

 そう願うこと自体が間違いなのかと思うと、樋口との間に距離があるのを感じ、凪は悔しげに俯く。
 凪の様子に、樋口は云いすぎたかと内心焦りだし、細い顎を掴み、そっと掬い上げた。
 泣いているものかと思えば、此方を見上げて来る凪の瞳は濡れていない。
 性格は内向的でも、凪は滅多なことが無ければ泣かず、彼の涙を樋口はここ最近見ていなかった。
 一瞬、凪を泣かせてみたい衝動に駆られた樋口は、そんな自分に対し、舌打ちを零す。
 その疎ましげな舌打ちが、樋口自身に対してのものだと察することも出来ず、凪の胸は、ずきりと痛んだ。
「もうこの話は止めましょう。くだらねぇ事で、凪君と過ごす時間を壊したく有りませんし」
(……くだらない、こと?)
 上から降ってきた言葉が、心に直接、突き刺さる。
 目を大きく見開いた凪は身を捩り、まるで逃げるように樋口の手から離れ、距離を取った。
 眉根を寄せ、精一杯の反抗的な眼差しを、樋口に向ける。





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