ただいま…01
――――――――――ただいま。
まるで何事も無かったみたいに、男はその言葉を口にした。
男の声が久し振り過ぎて、一瞬、こんな声だったっけ?なんて考えてしまう。
「さあ、パパの胸の中に飛び込んでおいで」
両手を広げて、キラキラした瞳で俺を見ているこの男は………正真正銘、俺の実父だ。
俺は呆れて何も言わず、さっさと自室へ戻って行った。
俺がまだ小学校の頃、親父は母さんと離婚した。
それからずっと、二人では広過ぎる一軒家で、俺と親父は普通に暮らしている筈、だったんだけど
いつの間にか、道を踏み外したと云うか………。
そもそも離婚の原因が、親父の性癖に有った。
今までそんな素振りなんて見せなかった癖に、親父は所謂、男も女もオッケーなバイセクシュアルだった。
それを知った母は、ショックで卒倒しそうになったけれど、何とか堪えた矢先に、親父はとんでも無い事を口にしたのだ。
『―――――私は、弘人を愛している』
つまり、実の息子である俺を愛しちゃってるとか、自分の妻に向かって言ったのだ。
アイツは馬鹿だ。馬鹿で阿呆で……母さんを泣かせた。
けれど俺はもっと馬鹿だった。
幼い頃の俺はかなりのファザコンで、その告白を聞いて、母さんが泣いていると云うのに喜んでしまった。
流石に、母さんの前で喜ぶような真似はしなかったけれど、俺は本当に親不孝者だ。
「弘人ー、ご飯出来たよー」
階下から親父の機嫌良さそうな声が聞こえたけれど、無視を決め込んだ。
それに、今やっているゲームを今日中にクリアしなきゃいけない。
特に何も考えなくて良い上に、夢中になって時間を過ごせるから、趣味が少ない俺にとってゲームは癒しだ。
一昨日買ったばかりの最新のソフトを、先にクリアした方が、駅前の上手いラーメンを奢る。
そんな下らない賭けを、友人としていた。
「弘人、食べないのかい?今日はパパの特製カレーなんだけど…」
自室の扉をノックして、外から同情を引くような淋しげな男の声が聞こえた。
―――――良い歳して、何がパパだか…。つうか、カレーに特製とかって有るのかよ?
そう思っていても口にはせず、俺は黙々とゲームをやり続ける。
コントローラーを握っている手がせわしなく動いて、リアルタイムの戦闘を楽しんでいた矢先に
扉の方からカチッと何か小さな音が聞こえて、思わずそちらを振り返る。
鍵を掛けた筈の扉が開いて、スーツをまだ着たまま、その上からエプロンをしている男の姿が眼に入った。
「なんだ…返事が無いからてっきり、一人でしてるのかと思ったのに」
「…はぁ?」
何言ってるんだコイツは。
呆れた眼差しで相手を見ると、親父は勝手に室内へと足を踏み入れて来る。
扉が後ろ手に閉められて、鍵まで掛けられた。
「駄目だよ弘人、ゲームばっかりしてちゃ。眼が悪くなっちゃうだろう?」
優しい笑みを浮かべているけれど、親父の目はとてもギラついていて、俺は軽い溜め息を吐いた。
画面に視線を戻すと、戦闘はいつの間にか終わっていて…キャラは全滅していた。
それを見ていたら、何だか急にクリアしようと思っていた事が馬鹿らしく思えて、電源を半ば乱暴に切る。
「あぁ、でも…眼鏡を掛ける弘人も、カワイイかも知れないね」
「ンなコトはどーでも良いんだよ。それより、仕事は終わったのかよ?」
「うん…まあ、お陰様でね。暫くは家でゆっくり出来そうだよ」
ふぅん、と素っ気無い返事を相手に向けて、俺はさして興味が無いように振舞った。
コイツが家を留守にしてから、一週間ぐらい経過しただろう。
今日帰って来なかったら、俺は友人の家に泊まりに行こうと思っていた所だった。
親父の名前は和浩(。三十代後半の癖に、全然老けて見えない。
有名な広告代理店の社長で、忙しい時は家に何日も帰って来ない時だって有る。
それでも普段は家に連絡して、飯は食ったのかとか、淋しくないかとかしょっちゅう訊いて来る癖に……今回は一回も電話が無かった。
「弘人、やっぱり…怒ってるのかい?」
「さあね」
別に怒ってはいない。
淋しいと感じた事は認めるけれど、電話を掛けて来て貰えないだけで憤慨する程、俺はコイツに熱を上げている訳でも無い。
ゲーム機を片して立ち上がろうとすると、いきなり親父が俺を抱き締めて来た。
俺は華奢でも身長が低い訳でも無いのに、長身で体格の良いこの男に抱き締められると、すっぽりとその腕の中に収まってしまう。
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