女が、目の前で泣いている。
 両手で顔を覆って、少し俯いて、肩を震わせている。
 白い項が綺麗だなとは思ったけれど、それ以外に特に関心は抱かなかった。
 それに俺は、涙が、大嫌いだ。


   『 濡れる肌 』


 両親が海外で働いている所為で、俺は二つ下の弟と暮らしている。
 同じ学園に通っているから登下校はいつも一緒で……だけど今日は、帰り道を進む俺の隣にあいつは居ない。
 放課後、一年の教室まで迎えに行ったら、弟の友人から風邪で早退したのだと聞かされて、だからなるべく早く家に戻りたかった。
 あいつは少し身体が弱いから、体調を崩した時に目を離すと、直ぐ悪化する。

 遊び仲間の誘いも断って、俺は急ぎ足で自宅へ続く道を進んでいた。
 そうしたら急に、同じ高校の制服を着た女に呼び止められて、その女はいきなり俺のことを好きだと言って来た。

 ――――あのさ、そう云うのはさ、先ず名乗ってからにしろよ。あんた誰だよ。
 そう冷たく返した途端、女は急に目の前で泣きだしたのだ。
 ひどい言葉を口にした訳じゃないのに女は泣き出して………弟のことが有るから直ぐにでも帰りたいのに、こんな所で足を止めている場合では無いのにと、俺はひどく苛立った。
「古坂くん、ひどい。私、ずっと好きだったのに…古坂くんがこんな人だったなんて、思わなかった」
 女は顔を上げて、手で涙を何度も拭いながら、俺のことをひどい男だと責めた。
 涙を拭って、零しては手で拭って、泣きながら俺を責める女。
 俺がどんなにひどい人間なのかを見抜けないで、憶測だけで理想の俺を作り上げて………それに惚れるなんて、馬鹿な女。

「話は、それで終わり?―――じゃあ、ばいばい。」
 短い言葉を続かせて女に背を向けると、唐突にその女は待ってと叫んで、謝ってと意味の分からないことを云いながら両手で俺の手を掴んで来た。
 女の濡れた手が触れて、拭われた涙が、俺の手も濡らす。
 その事に……他人の涙が俺の肌を濡らす事に、激しい嫌悪感を抱いた。
 俺は明確な理由を持たない涙嫌いで、泣く人間は死ぬほど嫌いだ。
 幸せな時に流す涙だろうと、感動の涙だろうと、人が流すそれに、いつも嫌悪感を抱く。
 絶対に触れたくはないし、見るのも好きじゃない。

「――――触んなよ、」
 冷たく返して、乱暴にその手を振り払おうとしたけれど、冷たい声を返した時点で女の手は怯えたように離れた。
 ひどい、と女はまた口にして……俺は何も返さずに、女に背を向けて足を進めた。



 家に戻ると弟は自室に居たが熱も無く、思ったより元気そうで俺は安堵した。
 制服を着替えもせず、ベッド脇のスツールに腰を降ろして、不意に思い出した女のことを軽い気持ちで喋った。
「……それで、その女の子、一人にして来たの?」
 すると、ベッドの上で上体だけを起こしていた弟は責めるように俺を見つめて、そう訊いてきたのだ。
 軽く頷くと、相手は複雑そうな表情を浮かべて、あのさぁ…と言い難そうに声を小さくして言葉を続かせた。
「兄ちゃんさ、いつか絶対誰かに刺されるよ。ちゃんと優しくしてあげなよ」
 表情は心配そうなものに変わって、その場面を想像したのか、弟は毛布を右手できつく握る。
「おまえは優しく出来るのか?優しくして、相手に期待させて…また告白されたら、断るんだろう。……生殺しだな、」
 吐き捨てるように言葉を返して、俺は笑う。
 弟は俺と違って優しいから、同じ状況でも優しい言葉の一つや二つ、掛けた事だろう。
「そうじゃなくて、せめて人並みには優しい言葉を掛けた方がいいんじゃないかなって…」
 耳に入って来た言葉に俺は鼻で笑って、分かってないなと続かせた。
「誰かに優しくするなんて、俺らしく無い。それに、誰にどう思われようが、好かれようが嫌われようが、どうでもいい」

 ――――おまえ以外は、どうでもいい。
 そう言葉を続かせると、弟の頬は徐々にうっすらと赤みを帯びてゆく。
 いきなり何を云うんだと言いたげな瞳で、此方をチラチラと伺っている様が、ひどく愛おしく思えた。