黒鐡…01

 今は秋だと云うのに外の景色は寒々しく、冬を感じさせる。
 布団の上に横たわって軽く咳込みながら、薄暗い天井を見つめた。
 物静かな室内には僕の咳以外、物音は一切しなかった。
 けれど次第に、襖一枚隔てた向こう側の廊下から、近付いて来る足音が嫌でも耳に入る。
 静か過ぎる家の中では、あまりにも良く響く音だ。

 祖父は僕が幼い頃にひどい肺炎で亡くなり、祖母も僕が中学に上がる前に亡くなった。
 父は元からこの家には居らず、この家を訪ねて来る事すら無い。
 だからこの家には、僕と母以外、誰も住んで居ない。
 母は父の正式な妻では無く、愛人と呼ばれる存在で……でも、僕が生まれた頃には既に、お互い愛は冷めていたらしい。
 祖父は何も言わなかったけれど、祖母は誰の子かも分からない僕を大層煙たがっていた。
 母は父の事を、僕以外の誰にも云わなかったのだ。
 幼い頃から、まるで思い出したように父の事を僕に少し語っては、黙り込んだものだった。
 その沈黙が何を意味するものなのか、当時の僕は分からないし、今でも分からない。

 かろうじて続いているような流派の家元が、僕の母に当たる人だ。
 本来なら、母の直系である僕が家元を継ぐ形になるのだけれど、僕には華道の才能が無い。
 それに身体も弱い上に、良く高熱を出して寝込み、幼い頃から散々母に迷惑を掛けて来た。
 母からして見ればお荷物でしか無い僕は、高校を卒業してからは、ずっと家の中で過ごしている。
 家元を継ぐ事も出来無い上、高校の頃はしょっちゅう倒れたり、高熱を出して欠席したりと、散々迷惑を掛けまくったものだから…
 母は大学に行くのも金の無駄だと云って、家で大人しくしているよう、僕に告げた。

 彼女の言葉を聞いた時、傷付くよりも、確かにその通りだと思った。
 ただでさえ、しょっちゅう医者に掛かったりして、金のかかる面倒な子供なのだ。
 その上、大学なんて行ったら、もっと面倒を掛ける事になる。
 どうせ何度も寝込んで、出席数が足りなくなるのだって目に見えている。
 だから僕は、あっさりとそれを受け入れた。


「出掛けるわよ。支度をしなさい」
 足音が襖の前で止まったかと思うと、半ば乱暴に襖は開けられ、母が淡々とした口調で云って来る。
 歳はもう三十半ばを過ぎていると云うのに、息子の僕が云うのも何だけれど、綺麗なままだ。
 もう既に彼女は支度をしているみたいで、不機嫌そうなその顔を見て、折角美人なのに勿体無いと考えた。
 二日間も安静にしていたのに、まだ熱は少し有ったけれど、母はどうしても僕を連れて行く気みたいだった。
 少し頭痛がする頭を片手で抑えながら、僕はなるべく急いで布団の中から這い出た。
 あまり待たしてしまうと彼女の機嫌を更に損ねるので、直ぐに出掛ける支度を始める。

 母は何処へ向かうとか云わなかったけれど、僕には察しがついていた。
 今日は僕が、十九歳になる日だ。
 毎年、と云う事は無いが、誕生日に当たる日は行く処が有る。
 そこに行くのは、とても億劫で―――
 僕がどれだけ嫌な感情を抱えても、母は構わずに連れて行く。
 僕が億劫がっている事すら、この女性(ひと)は知らないのかも知れないけれど。

「早くしなさい。服は…面倒だから、制服で良いわ」
 苛付いた口調で彼女はそう云い、荒々しく足音を響かせながら部屋を出て、襖を乱暴に閉めた。
 あの場所に行くのは、三年ぶりだろうか。
 もう行かなくて良いのかも知れないと、僕は薄々期待していた。
 僕の歳もろくに覚えては居ない、ほんの気紛れで僕を呼ぶような―――そんな、好きでも嫌いでも無い、たった一人の父の元へこれから向かわなければならない。
 でも億劫なのは、父に会う事では無かった。
 あの家に行くのが嫌で嫌で仕方ない理由は、父では無い。
 頭の中で一人の男の姿を思い浮かべると、溜め息が自然と唇から零れた。
 出来る事なら、苦手なあの人が居る場所へは行きたくない。
 けれど自分の思い通りになる事など、昔から無いのだ。
 いつからか身についた諦め癖は、直ぐに我儘な思考を掻き消した。

 ………大丈夫、直ぐ終わる。
 今までして来たように、父の気紛れの話相手を務めて、時間が過ぎるのを待って……。
 自分自身を説得するような言葉に自嘲的な笑みが零れそうで、それを堪えながら、高校の頃の制服を取り出して着始めた。
 高校を卒業してからもう大分経っているのに、それは変わらずにピッタリと身体に馴染んだ。
 自分の体格が全く変わっていない事に気付かされて多少落胆し、鏡の前に立ってタイを結び、締める。

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