黒鐡…02
鏡に映る自分の顔を見て、溜め息が漏れた。
美人の母に良く似てしまっているこの顔も、男の癖に色白で背も低く、小柄で細い身体も嫌いだ。
暫く鏡を睨むように眺めていると、今自分が結んで締め終えたタイへと視線が降りる。
久し振りに結んだと云うのに、きちんと結べている事にいささか気が良くなった。
部屋から出て渡り廊下を歩き、少しフラつく足取りで母屋の玄関へと向かう。
僕の部屋は病弱だった祖父の部屋でも有り、離れにある。
病気がうつらない様にと配慮されての事か分からないけれど…僕はたまに、まるで見捨てられて一人っきりの世界に居るように感じられる。
「三年も行っていないから、もう行かなくて済むのかと思ってたよ」
物静かな家の中では、張り上げるように喋らなくても、良く声が響いた。
靴を靴箱の奥から取り出し、丁寧に磨いて、少しヒールの高い母の靴も同様に磨く。
こう云った事を母は出来無い人だから、結局僕がやる事になるのだけれど、母は男の僕がこう云った事をするのを良く思っては居ない。
「あんたの父親は気紛れ過ぎるのよ。ほら、もう良いから行くわよ」
急ぎ足で玄関へとやって来た母は声を掛けながら、いきなり手を叩いて来たものだから、僕は磨いていた靴を落としてしまう。
けれど母は謝罪する事もせず、僕が落としてしまったそれを当然のように取り、履き始めた。
「あんたね、もう少し男らしくなさいよ。こんな、靴磨きなんて男がやるものじゃないでしょう」
理想が高い母は苛立たしげに言葉を吐き、僕の方なんて全く見ずに玄関の扉を開けて外へ出てゆく。
別に褒められたくてやっている訳では無いけれど、何をしても褒められない事に対して、いささか物悲しくなった。
けれど僕は揺れる心を誤魔化すように、わざと急いで革靴を履き、母の後を追うように家を出た。
僕は、父の顔を覚えていない。
それは僕が、人の顔を常に見ようとしないからだ。
幼い頃から極度の人間嫌いで、他人の顔をちゃんと見ようとしないし、深く関わろうともしない。
母の顔はちゃんと見れるが、話し掛ける時は自然に目線が逸れてしまうから、眼を視ながらの会話は出来無い。
人間嫌いになった理由は自分でも良く分からないけど、今も変わらずに、他人の顔をじっくりと見れずに居る。
でも、母以外で顔をちゃんと見れる人は、もう一人だけ居た。
父の傍らに居たあの男を思い出すと、背筋に寒気が走る。
精悍でひどく整った男らしい顔立ちをしていて、その上長身で黒のスーツをきちんと着こなして……同性の僕から見ても魅力が有って、格好良いと思えた。
けれど、雰囲気はとても冷たくて、恐ろしい。
何か禍々しいような、黒い獰猛な獣を感じさせるようなあの雰囲気が、僕は恐ろしくて堪らない。
あの男と会ったのは、まだほんの二回で……
父と言葉を交わしている間、何度も眼が合って、責めるように細められた冷たいあの双眸が、今まで何度も僕を凍り付かせた。
父と話している間ずっと、男は僕の方をずっと見ていて、初めは気の所為かと思ったけれど、何度も眼が合うのだ。
親子の会話を微笑ましく見守っているとか、優しい雰囲気なんて男には無くて。
冷たいあの眼は、僕をいつも睨んでいる。
同じ男なのに僕は痩身白皙だし、身体も弱い上、他人の顔も見れないような人間だ。
あまりにも男らしくない僕を、あの人はきっと嫌悪しているに違い無い。
理由も分からずに睨まれ続けるのは気に障るし、人の事でずっと悩み続ける事などしたくない僕はそう決め付ける事で、悩む事を直ぐに終わらせた。
あの人はやっぱり、今日も僕を睨んで来るのかな……などと、僕は混雑した車内のドア付近に立ちながら、ぼんやりと考えていた。
時間が経つにつれて徐々に体調が悪くなり始めた事実と、人間が多過ぎる光景から逃げるように、父やあの男の事を考えていた僕は口元を片手で覆った。
堪えきれず少しだけ咳込むと、隣に立っていた母の手が途端に僕の項へ伸びて来て、爪を立てるようにそこを抓った。
周りの人には気付かれないよう、工夫している。
こう云う叱り方はいつもの事だけれどやはり痛く、眉を寄せて俯くと、直ぐに母の手は離れた。
こんなに人が多く居る中で咳込む事は、母にとっては許せない事のようだ。
恥を掻くと母が思っているのかは分からないけれど、僕は強まる頭痛に悩まされて、息が詰まった。
母と外を歩く時でも、かなり間隔をあけて歩く程、他人の近くに居る事を好まない僕にとって混みあった車内は最悪だった。
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