黒鐡…03

 一人の人が傍に居ると、多少息が詰まって落ち着かないだけで済むけれど、多すぎる人間の中に居ると吐き気や頭痛を催してしまう。
 医者からは精神的な物だと云われたけれど、一向に治る気配は無い。
 ただでさえ、体調が悪いのに……僕はそう考えて、息苦しさに眉を寄せた。
 体調の悪さは、強まる一方だ。

「母さん…」
 今からでも帰らせて欲しいと望みを篭めて、辛いのだと伝えようとした。
 けれど、母は窓の外を見ていて、こちらを見向きもしない。
 帰る事は許されないのだと判断して、仕方なく我慢する為に、なるべく視線を下に向け、周囲の人を見ないように努めた。
 普段から自室に閉じこもってあまり外出しない僕に取って、人が多すぎる街中や電車内は、苦痛すぎる。

 強まりそうな吐き気を抑える為に、目を瞑ってゆっくりと深呼吸する。
 他の人はどうか知らないけれど、僕にはこれが結構効く。
 深呼吸を繰り返しながら、早く駅に着いて欲しいと考えた僕は目を開け、窓の外へ視線を向けて、流れてゆく景色をぼんやりと眺めた。
 駅に着けば、恐らく迎えの車が待機しているのだろう。
 けれどその車には、父は乗って居ない。
 あの大きく広い家で、さして愛しても居ない僕を待っているのだ。
 父に愛されて居ないんだと分かっていても、傷付く事は無い。
 僕は人の言動に傷付く事も、人との関係に悩んだ事すら無かった。

 感情なんて無くて、冷たい塊の――――まるで鉄のような心を持っている僕が、ただ、そこに存在しているように思える。
 僕の心は多分、半分以上が空っぽだ。



 三年前とあまり変わっていない家の門口を通り、広い庭を横目に僕は応接間へと案内された。
 母は自ら別室へと足を進めてしまい、この部屋に居るのは僕一人だけだ。
 父と母はもう長い間顔を合わせて居ないらしく、今日も合わせまいと僕に背を向けて足早に別室へ向かったその姿を、退屈を紛らわすように思い出した。
 畳の上で正座をし、体調の悪さに悩みながらも父を待っていると、障子の向こう側の廊下から忙しそうな足音が近付いて来た。
 視線をゆっくりと障子へ移すと、その向こう側に二つの人影が見える。
 けれど、僕は何も感じない。
 あの黒々しくて、思わず震えてしまいそうな程に獰猛な雰囲気が、全く感じられないのだ。

 あの人は、もう居ないのか――――。
 そう考えた瞬間、僕は何だか、すとんと何かが落ちてゆくような、何だか分からない感覚を覚えた。
 この感覚は何だろうかと不思議に思ったけれど、ゆっくりと開いた障子の向こう側から誰かが入って来たのを見て、直ぐに考えるのを止めた。
 最初に入って来たのは、恐らく父だろう。

「待たせたな、」
 まるで待たされたのは自分だとばかりに、何処と無く不機嫌そうな声で喋るのは、紛れも無く父だ。
 顔は見たことが無いけれど、きっと不機嫌そうな顔をしているんだろう。
 ゆっくりとかぶりを振って、全然大丈夫ですと返しながら、僕は視線をそろそろと上げた。
 父は正面の上座で胡坐を掻いて座り、その斜め右後ろ辺りの丁度障子の近くに、品の良いスーツを着た人が座っている。
 二人の顔も見ないまま、直ぐに視線を落として意味も無く畳を眺めた。
 そう云えば、あの男を最初に見た時は、躊躇いもせずに自然と目が上がっていったっけ。
 執拗に感じた男の視線が、気になったからなのか定かでは無いけれど、母以外の人の顔をあんなにも長く見たのは初めてだった。
 あの男が相手なら、眼を見ながら言葉を交わす事も、出来るだろうか。
 そんな考えが一瞬だけ頭の中をよぎった瞬間、父の声が耳に響く。

「今日が誕生日だったな。何か欲しい物は有るか?」
「いえ、特には…」
 短く答えると少し沈黙が流れて、父は軽い咳払いをした。
「…あぁ、…お前は十七になったのか、」
 僕を呼ぶ際に少し口篭った父の声を耳にして、思わず嘲笑が浮かびそうになった。
 父は、僕の名前など覚えては居なかったのだ。
 その上、僕の歳もちゃんと覚えては居ない。

 ――――これが、僕の父だ。
 一瞬で何もかもが、どうでも良くなった。
 訂正する気も失せた僕は、何も云わずに頷いて見せる。
 本当の歳を告げても、この人は直ぐに忘れるだろう。
 愛して居ないと云う事は、どうでも良い存在だと云う事だ。
 父が僕をどうでも良いと感じているように、僕もこの人をどうでも良いと感じている。
 こんなのは、親子なんて云えるのだろうか……。

2 / 4