黒鐡…04
そう考えると何だか胃がせり上がって来るようで、少しだけ眉が寄る。
元から体調が悪い上、来る途中の混雑した車内で人に酔ってしまったのも有って、吐き気は余計に強まった。
きっと顔色はかなり悪いだろうと考えるが、父は全く気にした素振りも無く、自分の会社の自慢ばかり話している。
軽く俯いて畳を眺めながら、早く家に帰りたいと、僕はただ切に願った。
父は自分の話を三十分程続けて話すと満足したのか、もう僕に用は無いと云った様子で解放してくれた。
ふらつく足取りで母の待つ部屋へと向かうと、母は僕の顔を見るなり不機嫌そうに眉を顰め、濃藍色の座布団の上から立ち上がった。
「全く、午後から兼原に会うと云うのに…遅れたらどうしてくれるのよ。…あの人も、もう少し考えて欲しいわね」
ぶつぶつと呟きながら彼女は、僕のコートを押し付けるように手渡してから、横を足早に通り過ぎて廊下を進んでゆく。
あの人は気紛れだと認めたのは、母さんじゃないか…と頭では考えていても、決して口にはしない。
母の機嫌を損ねて、こんな所に置いてけぼりにされるのは、まっぴら御免だからだ。
母が会うと告げた兼原と云う男は、母の一番弟子であると同時に、恋人でも有る。
温厚そうな男の雰囲気と声を思い出して、母がもし遅れたとしても、怒る事は無いだろうと考えた。
顔は…全く見なかったから、兼原がどんな顔をしているのか知らない。
でも多分、顔立ちは良い方だと思う。でなければこの母が、恋人にする筈が無い。
玄関から庭に出て、やっと帰れるのだとホッとしていたのも束の間で、母は先程の部屋に携帯を忘れて来たと告げて
いそいそと僕から離れて家の中へ戻って行ってしまった。
どうすれば携帯なんか忘れるんだろうと呆れながらも、僕は母の背を見送る。
具合が悪い為に、母の後を追いかける気には、どうしてもなれなかった。
折角履いた靴をまた脱ぐのすら、億劫で仕方ない。
一人残された僕は、陽の当たらない所を探して庭の隅に向かい、まだ帰れそうに無いのかと考えて、軽い溜め息を吐く。
秋だと云うのに外はやけに寒く、僕が吐いた息は白く見えた。
陽が当たらない場所に居るから余計に寒くて、コートを羽織っているだけでは物足りない気がする。
手袋かマフラーでもしてくれば良かったと考えながら、冷えた手を擦り合わせて壁に凭れ掛かった。
熱が上がり始めたのが分かったから、夜半には高熱で意識が途切れるかも知れない。
今までの経験上、その予想は確定に近かった。
数日間はまた寝込むかも知れないと考えながら、再度白い溜め息を漏らす。
僕が高熱を出そうと出すまいと、母が僕の傍に居る事は無い。
あの離れで一人、熱にうなされ続けるのが、昔っから当たり前の事だった。
軽く咳込み、熱でぼんやりとする頭に少し苛立ちながら少し向こうの、日の当たっている地面を眺めた。
来る時は曇っていたのに、もう日が出ている。
日差しにめっぽう弱い僕にして見れば、温かそうな日差しは僕を苛立たせるだけだ。
此処まで日差しが届く訳が無いけれど、僕はまるで逃げるように、壁へ背を押し付けて俯いた。
気持ちの悪さは最早ピークに達していて、咳が更に酷くなり始める。
口元を両手で押さえて咳込みながら、立っているのも辛くなって、その場にしゃがみ込んでしまう。
どうやら僕の居る場所は死角になっているみたいで、家の中に居た人達からは気付かれる様子も無い。
どれだけ苦しくても、他人に助けを求めようとはしない自分の頑固さに、少し呆れた。
けれど、それで良いのだ。
人に助けを求めたりなんかしたら、脆弱な僕を見て、母が恥を掻くだろうから。
「おい…大丈夫か、」
止まらない咳の所為で呼吸が上手く出来ずに苦しんでいると、少し遠くの方から低い声が聞こえた。
それから、荒々し気に近付いて来る足音が、耳に入る。
地面しか見ていない僕の目の前まで、黒く高そうな革靴は近付き、そしてピタリと止まった。
けれど僕は顔を上げられず、身体に言いようの無い緊張が走るのを感じていた。
これは……この雰囲気は間違い無く、あの男のものだ。
今にも食い千切られそうな程に獰猛な、黒々しく威圧的な雰囲気。
今日は父の傍に居なかったから、てっきりもう居ないとばかり思っていたのに。
「お、構い…な、く」
咳の所為で苦労しつつも、少し震えた声でそれだけを云うけれど目の前の靴は動こうとしないから、聞こえなかったのかも知れない。
咳は次第に少しずつ治まり、その事に安堵しながら僕は直ぐに立ち上がった。
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